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現在を観ることは過去生を観る事よりも良い ルアンプー・プラモート師
ある人は
修習(バワナー)を続けていくと
過去が観えたり
過去生観えたりする人がいます
本当に観えているのでしょうか?
それは本当に観えているのです
後で思いついた出来事(マノーガム)では無いのです
その観えたものは本物なのでしょうか?
しかしそれは不確かでよくわかりません
私達の煩悩はあらゆることを思い出させる程強いものです
本当のものはあまり無いのです
ですから
それを信じる必要はありません
しかし
本物を観るのであれば
今この瞬間を観るのです
過去を観る必要は無いのです
誰かに文句を言うこと
怒りが湧いてきた為です
心に怒りが湧いてきたと
観ることが出来ます
それは
自分の過去生が何だったのかを知るよりも良いことです
過去生が竜神だったのかまた違うものだったのか
それは意味が無いのです
それよりも
現在が最も重要なのです
ルーパ(形のある物)・ナーマ(形の無い物)
身体・心の現在あるもの
それが重要なのです
過去は無いのです
過去はもう終わってしまったのです
例えば
私達の身体で
先ほどしてた呼吸の出入りも
もう終わってしまったのです
元に戻すことは出来ないのです
本物は現在にあるのです
ですから私達が
本物のルーパ(形のある物)・ナーマ(形の無い物)
身体・心を観るには
それらは現在の中にあるのです
過去を観たり
未来を観ることは
意味が無いのです
心が熱くなるだけです
かつてあれに生まれ変わった
かつてこれに生まれ変わった
何が良いのでしょうか
かつて土地の神として生まれていた
今はそうではないでしょうに
何が良いのでしょうか?
もし
サティとパンニャー(智慧)があり
本当に過去を観ることが出来るのであっても
そこは苦(ドゥッカ)以外は
他に何も無いのです
生まれた瞬間に苦(ドゥッカ)なのです
生の苦
老の苦
病の苦
死の苦
愛するものから離別の苦
好まないものと一緒にいなければならない苦
欲しいのに得ることが出来ない苦
嘆き悲しむことの苦
仏陀は
私達が輪廻の中で流してきた涙は
大海よりも多いものであると言いました
しかし
もしも
仏教徒として過去生を観るなら
「自分はあれがすごい」
「自分はこれが素晴らしい」とは言わないのです
過去生は苦と罪しか無かった
何も良いものはなかったと
観るのなら
それを厭離(えんり)するのです
もう生まれ変わりたくないのです
仏歴2567年6月2日