煩悩とサティ(気づき)は同時に生じない ルアンプー•プラモート師
私たちは
心が流れていかないように命じることは出来ません
なぜならば心は無我(アナッター)だからです
しかし
私たちは
「心が流れていった」とサティ(気づき)でそれを知るのです
「心が流れていった」と気づいたなら
流れた心は滅するのです
なぜならば
流れていった心は落ち着きの無い心だからです
落ち着きの無い心というものは不善(アクソン)です
心が流れていかないように命じることは出来ません
なぜならば心は無我(アナッター)だからです
しかし
私達は
「心が流れていった」とサティ(気づき)でそれを知るのです
「心が流れていった」と気づくならば
流れた心は滅するのです
なぜならば
流れた心というのは落ち着きの無い心だからです
落ち着きの無い心というものは不善(アクソン)です
掉挙(じょうこ):ウッダッチャと呼ばれる
無知(モーハ)の家族なのです
落ち着きの無い心の事です
心が無知(モーハ)で流されている時
私たちはサティで無知あるいは掉挙が消えたと
知るのです
サティ(気づき)が生じる時は煩悩が瞬間に消えるのです
煩悩とサティは同時に生じないのです
暗闇と明るさが同時に生じないようなものなのです
暗い部屋にいて
電気をつけると明るくなり
暗闇が無くなることと同じなのです
煩悩がある時
サティが生じると
心が明るくなるようなものなのです
煩悩という暗闇が瞬間に無くなるのです
洗い流そうとする必要は無いのです
ですから
私たち修行者は
次の事を理解しなければなりません
「煩悩を洗い流そうとしなくてよい」
この煩悩は苦(ドゥッカ)の中にある一つなのです
渇愛(タンハー)なのです
渇愛は欲(ローパー)の力の強いものです
これは四聖諦の集諦(じったい:苦の原因)なのです
ほとんどは苦(ドゥッカ)なのです
苦は知るべきものであって
洗い無くすものでは無いのです
仏歴2567年9月15日