日本の「愛してる」は食べ物で伝える #10
ヨーロッパのハグ文化があったから、私は寂しくなかった
ヨーロッパでは、友人に会うと抱き合い、別れるときも抱き合い、嬉しいことがあると抱き合い、悲しいことがあっても抱き合う。
いとも自然にハグが行われるので、日頃抱えていたどうしようもない孤独感や寂しさが、すうっと消えていく。
クリスマスやお正月、誕生日といったイベントごとに、「大好き」や「愛してる」といったことを、ちゃんと言葉にして伝え合う。友人の親しいひとがなくなったら、彼ら彼女らをひとりにしないということを、ちゃんと形にして伝える。愛しているよ。だいじょうぶだよ。ひとりじゃないよ。ちゃんとあしたは来るよ。私がそばにいるからね。そういったことを、直接、はっきりと、ハグという形にして、伝え合う。
日本から家族も友人もいないところに留学しても、私が孤独を感じそれに悩まされなかったのは、このハグ文化があるからだ。
ハグ文化のない日本は、味気ない寂しい場所ではなかった
そんなヨーロッパから帰ってきた直後は、日本が味気ない国のように感じた。私は他者のうちに存在しているのだろうか。他者は私のうちに存在しているのだろうか。私は他者と、他者は私と、お互い交わることなく、ひとりだけで生きていくのだろうか。
その幻想が崩れたのは、帰国後割とすぐだった。ヨーロッパでは食べられないようなものばかりの、日本食の居酒屋に行ったときのことだった。家族は、美味しいものの最後のひとくちをいつも私にくれた。友人は、「おいしい店に誘ってくれてありがとう」と言っていた。
ひとりじめするヨーロッパ、分け合う日本
ヨーロッパでは、ひとりひとつのものを頼み、それを分け合ったりシェアしたりという文化はない。ピッツァは1枚まるごと、1人だけで食べる。私がマルゲリータを頼んだなら、それはすべて私が食べる。誰かに分け合うことはない。逆に、相手がクワトロフォルマッジを頼んでも、それは相手だけのものだ。
ヨーロッパにはない文化。美味しいものを分け合って、お互いの好物をひとくちずつ交換するというもの。私は明太子のだし巻き玉子が好きだが、それは私だけのものではなく、相手と分かち合う。相手はエビの唐揚げが好きだが、それは相手だけのものではない。直接言葉にしなくても、私達はその空間を分かち合い、同じ味を分かち合っている。「これおいしいね」「この味がいいね」なんて言いながら。
日本人にとって食は至上の極楽
海外に行くとわかるが、食に情熱を注いでいるのは、日本人とイタリア人くらいだと思う。
その他の海外では、以下のようなことは割とよくある。
3日3晩同じもの(作り置きしたトマトと鶏肉を煮込んだもの、など)を食べても平気
冷たい食べ物(パンにチーズを載せるだけ、など)だけでも平気
食のバリエーションが少ない(毎日じゃがいも料理だけ、など)それでも平気
味がしない食べ物(冷凍の豆をレンチンして塩を振っただけ、など)でも平気
小鉢料理や前菜やサラダやつまみなどがなく、1食にひとつだけのもの(鶏肉を焼いたもの、だけ)でも平気
詳しくはここに書いたので、よかったら見てほしい。
この章では、アダルトな話が入ります
「美味しいものを食べる」ということは、日本人にとって性交渉よりも意味のあることだと、アダルト玩具を売るサイトは言っている。
以下、ヤフージャパンの記事(荒川和久, 2021)より引用する。
日本語での「愛してる」の伝え方
アダルトな話は終わり。
英語の「アイラブユー」の翻訳は「愛してる」というものだが、実際にこの言葉を聞くのは小説やドラマの中が9割を占めていると思う。
私は家族を愛しているし、家族は私を愛しているが、「愛してる」という言葉を聞いたことは、私の記憶にない。これは機能不全家庭や虐待などではなく、そういった文化が日本には根付いていないのだ。
私は友人に愛してると言ったことはないだろうし、その逆もない。だからといって私には「ほんとうの友人」がいないわけではなく、私と彼らはちゃんと友人でいる。
「愛してる」という、「アイラブユー」の直訳を使わないのなら、じゃあなんというのか。
それは、食べ物を通じて伝えるということだ。
「アイラブユー」と同義の言葉たち
「炊きたてのご飯があるよ。あったかいうちに食べてね」
「あなたが昔好きだったオムライスを、ひさしぶりに作ってみたよ」
「今日は給料日だから、ちょっと奮発していい肉を買ってきたよ。すき焼きにしようか」
「ちょっと失敗しちゃったけど、頑張って卵焼きを作ったよ」
「ひとりぶん余ったケーキ、あなたにあげるよ。私はもう堪能したから」
「誕生日おめでとう。今日はあなたが好きなものをつくるからね」
「もっと食べなさい。お腹空かせたままでいないで」
「このみかん甘いよ。ひとくちあげる」
「今日は翠ジンソーダで乾杯だね」
「これ、私の地元の日本酒。帰省したときに買ってきたんだ」
「作りすぎちゃったから、よかったらこのラザーニャ食べてくれない?」
「これお母さんが作ってくれたおにぎりなんだけど、よかったら食べてくれないかな」
「どうしたの?食欲無くなっちゃった?だいじょうぶ?」
「栄養満点のたまごがゆ作るから、元気だしてよ」
「熱が出てつらいと思うけど、はやく元気になってね。あったかいにゅうめん作ったから食べてね」
これらは、すべて愛の言葉だ。
いま思いつかなかっただけで、もっとたくさん、こういうものはあるだろう。
書いてるだけで泣きそうになってきた。
言葉ではなく、食べ物を通して伝える「愛してる」
直接言葉にしなくても、伝えられる「愛してる」がある。
関西で「遠慮のかたまり」と呼ばれる、ひとくちぶんだけ余った食べ物を、自分にくれる
旅行したら、その土地の食べ物をおみやげとして買ってきて、それを一緒に食べる
いいことがあった日や、元気を出したい日には、ちょっといいものを奮発して買ってくれる
割引シールが貼られていなくても、好きなものだったら、それを買ってくれる
食べたことのないものでも、「これあの子好きそうだなあ」と思いながら、それを買う
娘や息子が好きな食べ物をわかっていて、あえて自分はそれを食べずに、娘や息子に食べさせる
一生懸命料理を作ってくれる、あるいは自分が相手のために作る
朝早く起きて手の込んだお弁当を作る
ちょっと高いものでも、相手の喜ぶ顔を思いながら、それを買う
帰り際に家族が好きそうなお惣菜を買って帰る
家族が好きなお酒に合いそうなつまみを作る
昔好きだった食べ物をつくってくれる
満腹になるだけの量の食事を作ってくれる
こうやって、私達は「愛してる」を伝え合う。そしてそれをちゃんと汲み取る。だからこそ、日本ではハグや直接言葉にする文化がなくても、愛を感じられる温かい生活ができる。