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人生は遥か彼方へ
「おはようございます」
「お疲れ様です」
「こんにちは」
生活をしていると、日々いろんな挨拶の言葉に触れる。
聞いたり、発したり、それは当たり前すぎてつい気づかない時もあるけれど、当たり前っていう現象ほど実は有り難くて、尊い物なんじゃないかなぁとふと思ったりもする。
我が家には、そんなよく耳にする挨拶に加え、昔から馴染みの深い、ある挨拶的な言葉がある。
「どう、コーヒーでもいれようか?」
である。
朝起きた時、お昼ご飯の後、お風呂上がり、
「どう、コーヒーでもいれようか?」
と、誰かが発すると、
「お、いいね!一杯もらおうか!」
そうやって部屋に香ばしい香りが広がる。
香りってすごく不思議で、思い出の中でも決して色褪せない。
コーヒーの香りもお母さんのにおいも、お父さん、おじいちゃんおばあちゃん、可愛い赤ちゃんにペットの特別なにおいも、いつまでも鼻の奥にずっと眠っていて、鼻と心は繋がっているんじゃないかしらと思ってしまう。
今朝、あくびをし、頭を掻きながらリビングに行くと、母がこう言った。
「どう、コーヒーでもいれようか?」
「あんた今日時間あるね?イオンでもゆめマートでもよかばってん、ちょっと運転してくれんね?車検で代車はあるんやけど、どうも慣れとらん車は怖くてね。今夜と明日の食材をまとめて買いたいんよ。」
「あ、いいよ!今日は暇やしおれも買い物あるけん。化粧水とかもいるけんイオンにしよか?そがん時間は変わらんけん。」
コーヒーを飲みながら、母が笑いながらこんな話をしてくれた。
「あたしもさ、一日五〜六杯はコーヒ飲むんよ。もう完全に中毒やもね。いろいろ本なんかで調べたらさ、コーヒーはガンとかの予防になるても書いてあるし、逆に体に負担になるても書いてあるし、情報が多くてはっきりせんけん、この前内科の先生に詳しく聞いてみたんよね。」
「お医者さんが言わすなら確かな情報だと思うよ。先生はなんて?」
「『松本さん、コーヒーをそんなに飲み始めてもうどのくらいになる?』て聞かれたけん、『はい、かれこれ五十年以上は経ってます』て正直に答えたったい。『なんか生死を彷徨うような大きな病気にはなった?』『いえ、夏場にめまいとかで薬出してもらったけれど脳波も心電図も毎月全く問題ありません』『そうね、ならコーヒーが悪者じゃないってことだけは言えるんじゃないの?』て、笑われたよ。あ、なるほど!て感心したよ。」
そう言って大笑いしている。
母はいつも元気で明るく、曲がった事が大嫌いでとてもおしゃべりだ。
美味しそうにおそらく二杯目のコーヒーを嗜んでいる。
あれは私が高校一年の頃、初めての三者面談の日だった。
私の通っていた高校は、熊本市内にあるミッション系の高校で、幼稚園からこの学校というお金持ちがとにかく多かった。
クラスの友達を見渡しても、それはそれは名だたる企業の社長の息子や病院の次男、国会議員の三男など、いわゆる一般的な家庭は私だけだったと記憶している。
駐車場の母を迎えに行くと、母は中古の軽自動車に乗ってやって来て、警備員のおじさんに頭を下げながらなんとか駐車したところだった。
「お母さん、学校が街中やけん混んでたでしょ?ねぇ、見て!すごい車ばっかりやね?こんな外車、おれテレビでしか見たことないよ。」
きょろきょろする私に母は、
「なんね、車の展示場に来たんじゃないんよ。あんたの成績とか将来の話をしに来たんでしょ?車なんかどうでもいいばい。寿命が来たらただの鉄屑やん。乗ってる人の気持ちの問題よ。」
そう言って教室へ向かって行った。
母は担任の話を一生懸聞いていた。
「ほら、先生、車の話なんてせんかったでしょ?あんたの成績、誉めとらしたやん!こんなに予習と復習を負けん気持って毎日して来る生徒は珍しいって言わしたど?大学も私立に絞るんやったら、あたしはしばらくまだ軽自動車で辛抱せなんね!あんたがいつか出世したら、さっきの車に負けんくらいの外車を買ってちょうだい。」
「正門出たところに自販機あったね?コーヒーでも飲もうか?
高校生の私には、まだブラックコーヒーの奥深さが理解出来なかったけれど、湯気の中で少し誇らしげな母の顔を、今でもなぜか覚えている。
平成十五年の秋、妻が病気で他界した。
息子が一歳、娘は十ヶ月だった。
二人分の紙おむつとミルク、機関車トーマスとアンパンマンのおもちゃを、妻の形見の大きなリュックに入れ、私たち小さな家族三人は実家の熊本へ帰って来た。
少し肌寒い日だった。
久しぶりに訪れた実家の台所から、懐かしいコーヒーの香りが漂って来た。
「いろいろと大変やったな。どう、コーヒーでも飲もか?」
両親のその声を噛み締めながら、この先の不安や心配を、ほんの少しだけ忘れることが出来た。
「あんたはな、これからいろいろと大変かも知れん。私たちが出来ることはなんでも助けるけど、気持ち的なものとか、しゅんとわかなへの親の愛情とか、そんなんは父親のあんたにしか分からんはずやから、いつかな、家族で笑って思い出せるように、負けたらいかんばい。そんくらいの根性はあんたは持っとるやろ?子供の頃からあたしとお父さんにたくさん怒られて、泣きながら勉強したりマラソンしたりしよったでしょ?そんな思い出とか悔しさとか、全部子育てに昇華させて頑張ってみてよ。でもな、自分はこんなに苦労しとるとか、こんな不幸なんよって、人前で顔に出したり世間を恨んだりしたらダメやけんね。あぁ、しゅんちゃんわかちゃんの家はママがいないのにあんなにしっかり頑張って明るいよ。見習わないと!そんな風にしゅんとわかなが誉められるように、あんたは水面の下で足をバタバタさせなさい。涼しい顔で周りを明るくするくらいの生き方をしなさい。何十年後か分からんけど、笑って泣ける日が絶対に待ってるから。」
誰より厳しく、何より温かい母の大きな言葉と表情を、今もはっきりと覚えている。
私にとって子育ては、人生の半分以上を占める大きな幸せである。
泣き、笑い、怒り、また泣いて笑っての毎日で、あっという間の二十三年間だったと思う。
もし生まれ変わって、自分の人生をもう一度選べるならば、また子育てをしたい。
たくさんの生きる術を母に習ったから、それを子供にも教えて行き、共に成長したい。
今度は出来るなら妻と一緒に。
ひと通り買い物を終え、フードコートでコーヒーを飲みながら、母がこう言った。
「さっきお父さんからLINEが入ってて、車検、無事に終わったらしいよ。あんたが買ってくれた車やけん、大事に乗るけん。まだまだ健康でおらなんなぁ。そう言えば、あんた高校の三者面談の時のこと、覚えてるね?高そうな外車ばっかり停まってたね!」
「覚えてるよ。お母さん、軽自動車で遅刻して来たでしょ?」
「あんたにはあぁ言うたけど、せめてお父さんの新車を借りて来ればよかったて内心思った!」
「そりゃそうやね!」
そう言って二人で笑った。
「しゅんもわかなもとりあえずは大学もちゃんと卒業して仕事も決まってあんたもひと安心やけど、ふたりに何があるか分からんのやけん、まだまだしっかりして元気でおらなんたい。親は子を生んだ責任があるけん、簡単に隠居出来んね。あたしもそうよ。どう、もう一杯、コーヒー飲もか?」
人生は、なんとなくコーヒーに似ている。
時に甘く、ほろ苦い。
そして、心がぽかぽかして、あったかいから。
なんてほんの少しだけカッコつけた言い方なんかしたら、天国の妻も笑ってくれるだろうか。
一緒に飲んだコーヒーの味を、思い出してくれるだろうか。
ぼくがいつかきみのもとへ行ったら、コーヒーでも飲もうか。
あの時みたく、笑いながら。
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