次に書く本と、鳥の子育て。
「最近、鳥の子育て動画ばかり見ている」という投稿をしているのですが、反応が極めて薄いのが残念です。皆さんちゃんと見たことがあるのだろうか、と涙ぐむ思いです。親鳥が与える餌である虫や小さなトカゲなどの見た目に拒否反応があるのかもしれませんが、それは私たちが日々食べている肉や魚も同じことです。
まず、巣の中の雛鳥はまだ目が見えていません。親が戻ってきた気配を感じて大きな口を開けてピーピー騒ぐのですが、親は雛鳥の口に割と乱暴に餌を突っ込みます。そんなに大きなものを飲み込めるのか、と思うほどの餌もありますが、何とか喉を通っていきます。食べた直後にお尻を親のほうに向けてプルプルし始め、親はそれがウンチの合図だとわかっていますから、トコロテン方式の「食べたら出てくるウンチ」をクチバシでくわえます。
巣を清潔に保ったり、外敵ににおいで見つからないように、という理由だそうですが、親はウンチを食べてしまったり巣の外に捨てに行ったりします。ですからいつも巣の中はとても綺麗に保たれているのです。この姿を眺めているだけで涙が出てきます。
しかし、ほのぼのした場面ばかりではありません。ヘビやワシに残酷に雛鳥が食べられる様子や、カッコーの「托卵」も見ることができます。カッコーは親鳥が不在のときを狙って他の鳥の巣に卵を生みます。多くの場合すでにあった卵よりカッコーのもののほうが大きいのですが、親鳥は気づきません。カッコーは本来の卵より先に孵化し、卵や、あとから出てきた小さな雛鳥を食料を独り占めするために巣の外に落としてしまいます。親鳥はそれに気づくことなく、自分の倍くらいの大きさに成長したカッコーの雛にエサをやり続けるのです。
YouTubeの動画を見ていると、このカッコーの行動に対していつも呪いの言葉が投げかけられているのですが、自然のシステムには優劣も倫理も正義もなく、すべてが対等であり「神が決めた生物の本能」に従ってそれぞれが一生懸命生きているだけなのです。神とは、アリとアリクイを作るように残酷な存在なのです。
こういうのを見ていると、どうしても人間の子育てと比較してしまいます。人間が子どもを育てるときは社会への適合を考えるのですが、社会が複雑になるにつれ、そこから本能が抜け落ちていきます。親鳥は毎日ただ餌を与え続け、雨が降れば巣に覆い被さって雛鳥を温める。これだけのことをしています。
私には子どもがいないので実感はありませんが、親が子どもを自分の望むように育てようとしているのを見ると、少し残念な気持ちになります。いい学校に入れて、いい会社に入れよう、その気持ちを完全に否定はできないのですが、そうしておかないと子どもが可哀想だ、と言う前に、もしかしたらそれは「自分の虚栄のためではありませんか」とも思ってしまうのです。
当然の教養として格差や差別などをよしとしていないはずの人が、自分の子どもを他人より優れた存在にするための教育をしようとする矛盾をカッコーの習性と比較するのも適切ではありませんけど。子育てについてはそれぞれの親の考え方ですから何も言う気がありませんが、親鳥と雛鳥の映像を見るたびに、ただ生まれて、ただ食べさせて、死んでいく、それ以外にどんな意味があるんだろう、と思ってしまいます。
ひとつだけ言えるのは、親が考える「上質な生活」「そこに向かうチケット」が子どもが手に入れる世界の限界になってしまうということです。これは後から気づいても修正できません。大谷翔平少年が親から勉強しろと言われていい会社に入れたとしても、1000億円の報酬はもらえなかったはずです。お金の問題だけではありません。彼は野球が好きで、それを仕事にできているハッピーな顔をしています。
人間はただ生まれ、死んでいく。その生きている間に何の言い訳も後悔もすることなく、ハッピーな顔ができればそれでいいんじゃないかと思っています。
次の本には、こういうことを書こうと思っています。
多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。