SNSでの「推し疲れ」を考えてみた~「本当のファン」って?推し活のリアル2022
最近「推し疲れ」がトレンドに入っているのを見かけました。原因の一端は、どうやらSNSにあるようです。
わたしは、某アーティストのファンです(ここではあえて名前を割愛します)。そのアーティストの「推し活」グループが、ほんの小さなコミュニティーから、徐々に巨大化するのを、ずっと見てきました。
ファンダムに多種多様な人が集まりだすと、さまざまな意見や見解が飛び交います。
「え?それやるんですか?」
SNSでの活動内容に「違和感」や「疑問」を持つこともしばしばあります。
昨今は「推し活」のポジティブな面ばかりがクロースアップされがちです。ですが「推し活」を様々な面から眺めてみると、「推し疲れ」で燃え尽きてファンダムを離脱する人も少なからずいるようです。
「推し疲れ」しないためにはどうしたらいいの?
「本当のファン」ってなんだろう?
昨年に引き続き、今年も考えてみました。
「推し疲れ」しないために
わたしはネット上での個人攻撃や誹謗中傷、マナー違反、ましてや違法行為は、もってのほかだと思っています。
なぜなら、世界に開かれたSNSの場で直接、個人的な指摘をするのはトラブルの原因となり、炎上の可能性も高くなるからです。
ファン同士で直接、指摘し合うのは、たとえ正義感からでも避けるのが賢明ではないでしょうか。
指摘する相手によっては「自分が間違ったことをしている」と感じていても素直に改められない人もいます。そういう人がSNSという可視化された空間で、多くの人から自分の言動を否定されるとどうなるか。
「みんなの前で恥をかかされた」と被害者意識に陥り、こじらせてしまうケースも散見されました。
もし、何らかの実害があれば、アーティスト本人と運営、関連機関が然るべき措置を取るはずです。自然鎮火するまで、そっと見守るしかないと思っています。
作品やアーティスト本人に不満を持ったなら……いわゆる「推し疲れ」で燃え尽きた結果、「アンチ」になるのは避けたいところです。
自分の好きだった作品やアーティストを見聞きするのも辛いなどという状況に陥らないためには……SNSをはじめ、ファンダムやネットの情報から、物理的に距離を置くのも一案です。
運営方針に不満があるなら……企業の窓口経由でクレームや意見、改善提案することをお勧めします。SNSで全世界に向けて、本人や運営に感情的に「気持ち」を叫ぶより、はるかに効果的です。
エンドユーザーの「忌憚なき意見」は、運営のオペレーションシステムの改善に繋がります。建設的な「ご意見・ご要望」は運営サイドとしてはありがたいものです。
本当のファンなら、客観的批評はしないもの?
さて「本当のファン」について、考えていきます。
わたしは某アーティストの作品と彼自身のファンです。でも他にもたくさん好きなアーティストがいるため、彼一人のことを盲目的に「溺愛」はしておらず、「盲信」や「依存」もしていません。神や仏、天使といった「理想化」や「神格化」する気も毛頭ありません。
わたしは彼の作品を客観的に評価しています。作品やパフォーマンスについての素晴らしさは、これまでの記事で繰り返し書いてきました。作品だけでなく、素敵な音楽でみんなを「ちょっといい気分にさせてくれる」人柄も含めて、彼を「敬愛」しています。
わたしは作品について音楽的な「批評」はしていますが、彼自身や運営を表立って「批判」したことは、ありません。
・溺愛とは
むやみにかわいがること。盲目的に愛すること。
・敬愛とは
尊敬と愛情。敬い、愛しむこと。
「恋は盲目」といいます。そういうファンがいてもおかしくないほど彼は魅力的ですし、それぞれ好きなようにやればいいと思います。
ただ、
「本当のファン」なら「溺愛」し「絶賛」するが当然
「批評」「評論」したいならよそへ
という意見を見かけました。これは非常に残念で同意しかねます。
この主張が本意であれば、ファンダム内で健全な「客観的批評」や「評論」「疑問や意見」でさえも、発言すると排除されることになります。
「棲み分け」と言えば耳触りが良いです。でも「棲み分け」は自然発生的に行われるもので、作為的に行うのは「排除」や「隔離」または「村八分」です。わたしは、そもそもファンを「グループ分け」し、派閥を作ること自体が「分断」への第一歩になると思っています。
ファンダムの中で、誰かが「本当のファン」を定義することは、ファン同士の軋轢を生むきっかけになります。アーティストの最も避けたい「分断」と「対立」に発展するかもしれません。
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少し真面目な話になりますが、特定の組織に権力が集中することで言論統制され、「健全な批評」や「公正な意見」が許されない世界は排除を生み、息苦しくなっていきます。
「言いたいことが自由に言えない世の中」は全体主義やファシズムに通じます。批評や批判を受け付けず「賞賛しか許されない」のでは、まるで教祖を崇拝するカルト集団です。
SNSのファンダム内において、大声で「グループ分け」を扇動するのは、年齢・性別・国籍など、全てのボーダーを超えて音楽を伝えようとしているアーティストの思いとは真逆のように感じてなりません。
もっと自由にそれぞれのスタイルで「好き」を楽しみたい
年齢・性別・国籍をはじめ、文化資本の異なるファンダムに君臨し統治するのは至難の技です。法に抵触しないことは大前提ですが、それぞれが良識の範囲で自由に「好き」を楽しめばよいのではないでしょうか。
ヒトは自分の感情さえ、飼いならすことは、ままならないものです。ましてや他人を自分の思い通りに動かすなんて到底無理です。ファンダムの中でどんなに影響力を持ったとしても、赤の他人はコントロールできません。
また、
「SNSでの影響力」=「その人の存在価値」ではありません。
わたしは一部のファンが「我こそがファン代表」のようにふるまうのは、いかがなものかと思います。なぜなら、彼の前ではみんな等しく「ただの1ファン」なのですから……。
彼の作品や彼自身をこよなく評価していても、SNSでつぶやかない人もいます。
彼の一挙手一投足に黄色い声を上げたり、無条件に全てを「絶賛・溺愛」しないサイレント・マイノリティー(いまやこちらのほうがマジョリティーの可能性も)もいます。
そういった「非・溺愛ファン」は、批判も絶賛もしません。それでもファンダムの一部の人たちからは「本当のファン」とは、みなされないのでしょうか?
アーティストから見れば、全くそんなことはない!と思いたいです。
「ただの1ファン」だから、純粋に「好き」を楽しみたい。どんな立場にあろうとも、彼の作品を愛しているなら、あなたもわたしも、みんな等しく同じ「ただの1ファン」です。
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「目的」と「手段」を取り違えていないか
SNSでの「推し活」は、情報収集やファン同士の交流には便利です。けれども、他者の言動が可視化されることにより、羨望や嫉妬、競争意識などさまざまな感情が刺激されやすいのも事実です。
SNSでの「推し活」は、あくまで作品を楽しむための「手段」であって「目的」ではありません。
SNSは「いいね」や数字によって外的評価が可視化されます。外的評価に依存・執着することなく、好きなモノ・コトが多方面に分散していれば「推し疲れ」や「燃え尽き」もなくなるのではないでしょうか。
「『そのアーティストを好きだと言う』ことがアイデンティティーとなっている」人も散見されます。いわゆる「わたしはこういう者です」と自己紹介する時に「○○のファン(推し)です」と名乗るようなケースです。
趣味や特技を活かして「推し活からインフルエンサー」的な「何者か」を目指すのも、「『推し活』で輝いている自分が好き」なのも結構だと思います。
アーティストに対する心の持ちようも、「他人軸」ではなく「自分軸」で作品を純粋に「楽しめる」かどうかでずいぶん違ってくるはずです。
情報を網羅しなくても平気、少しくらい遅れて知ったとしても気にしないくらいになれば、ちょうどいいのでは。もちろんそうなれば「推し疲れ」とも無縁でしょう。
あくまでも自分のペースが大切。「あなたはあなた、わたしはわたし」なのです。
「本当のファン」とは?
そのアーティストと作品が好きなら、誰でも、どんな応援スタイルでも「本当のファン」なのではないでしょうか?
「ただの1ファン」の意見(独り言)でした。
ちょっと早いですが……
2023年も音楽と共に。穏やかな一年になりますように。
SNSやインターネットの世界に思うこと
いつの間にか50本も書いてた……
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