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「子どもたちに民主主義を教えよう」を読んでみました。


民主的な学校の条件

工藤先生の経歴
37歳の時、民主的な中学校を作り、日本の学校を変えるために校長を目指した。
54歳の時、麹町中学校で「民主的な学校」をいくらか体現できた。
ただ、外から見ると工藤さんが学校改革をしたと思われがち。
民主的な学校というのは、そういうことではないのにね。

・対立を誰かに委ねず、当事者として、対話を通して答えをだしていくこと
・そのためには、誰一人置き去りにしない社会を実現すること
・その普遍的な最上位目標で合意するプロセスを皆んが経験すること
・それでまた何かあっても、合意した最上位目標に立ち返り修正し、答えを導き出すこと

麹町中学校では、一連のプロセスを日常的に学ぶことができるように教育内容や教育システムを改善した。

↓そうして、

『対話で合意を導き出す力』

が、教員にも子どもたちにも身についてきたと実感。
参加者全員がお飾りではなく当事者

6年目の協議会で生徒から挙がった2つの提案の質に驚いた。

・一斉授業をやめて欲しい
・避難訓練の目的を整理すること

『なぜいま、民主主義と教育なのか』

日本人は民主主義を理解しきれていない問題。

理由は、上が絶対の文化で、対話をして調整する経験に乏しいから。
制度として民主主義なんだけど、当事者意識が薄い国民が多い。

民主主義とは仕組みだけあっても、国民が成熟していなければヒトラー政権のように間違った方向に進んでしまう、不安定で危ういもの。

成熟した国民を育むことができるのは、唯一『教育の力』だと考える。

『従順さを求める教育は終わりにする』

しかし、今の日本の学校は民主主義と真逆のことばかりしている。

問題なのは、教員が子どもたちに良かれと思って、そういうことをしていること。
これではいつまで経っても日本に民主的な思考が根付かない。

と、工藤先生。

その原因は教員にあるの? 学校は色々と真逆。

私が不登校のことをやってきて、学校や教育委員会の方とやり取りする時に、すごく不思議なんですが、子どもではなく、上の人のことや自分の立場を見ているなという印象を受けることが多くて、正直気持ちの悪いコミュニケーションが生まれます。

そういう感じの人に限って
「不登校の子は人との関わりが少ないからコミュニケーション力が低い」
とかおっしゃる。

いやいや、逆じゃん。

そう言う人の、なんというコミュ力の無さよ。
自分からコミュニケーションぶった切ってるじゃん。

私が色々話す内容、個人的にはまぁいいとは思ってはくれるみたいだけど、上の人がどう指示するかによるから、自分ではどうしようもなくて、自分の立場を守るためとか、校長の立場の人なら教員を守るためとか、そういう当事者意識とはかけ離れた感じが多くて。

コミュニケーションの本質がなんだかズレてる印象を受けるのです。

学校という、子どもたちに物事を教える場でこんなことになっていることに愕然としてしまったのでした。

不登校のことも、子どもの不登校は親の自己責任で、親ならそれくらい仕方ないでしょとか、それくらいなんとかしてとか、親が学校の言うことを聞かないとか、そうとは言われなくても、結果的にそういう雰囲気で終わらせられてしまっている感じがするのです。

ということで、対話がそもそもできない。

最初は「話せば分かる」と思っていましたが、

話しても

・めんどくさい親
・モンスター

と思われているような結果にいつもなるのは、私がおかしいの??

(いや、全国的にみんなそんな状況みたい)

その原因として(学校・教育委員会的に)

・上の人がどう指示するかによるから、自分ではどうしようもないこと・自分の立場を守る必要がある
・教員に原因があっても教員不足だから指摘できない
・適当に相槌打って、不本意だけども親子に泣き寝入りさせないと学校が回わらない

ということになってしまっているから話してもどうしようもない感じになる。これは、仕方のないことなんでしょうか?
当事者意識とはかけ離れた感じが多くて悪循環すぎやしませんか?

学校復帰・・・

子どもたちは、学校に行けるものなら行きたいんよ。
でもまだまだ学校は全国的にこういう状況なのだなーと。

学校の準備が整っていない全国の現状の原因は、そういうところにあるんじゃないかな。

ちょっと今日は愚痴になりましたが。

本を読むのが難しい子ども

ちょっと話題は変わりますが、
私はそもそも本が読めない人間なのですよね。
そのことがすごく劣等感でした。
「本を読まないと、物事が分からないよ」
とか言われ続けてさ。
でもこれすごい偏見だなーと。

という訳で、本は部分部分読んでます。
ちなみに、スマホでみるSNSや記事なんかはすごく読みやすいんです。
SNSやスマホ時代が来て、読める喜びを知ったというか。
多分これは、スマホの幅と、その幅の文字数がちょうど私に読みやすいのかもしれません。
あと、オーディブルもいいですね。
何かしながら聴くと入ってきやすい。
という風に、子どもの頃はダメな自分を感じていたけど、やり方を変えれば出来るっていうのが40歳過ぎてから分かってきたのでした。
今は読書会のファシリを毎週しているのですが、子どもの頃には到底考えられなかったです。
縄文時代みたいな、本の無い世界で暮らしたいと思ってました。

という本の苦手な私は、目次を見て気になったところを読むので、読む場所がバラバラになりがちなんですね。(なので小説は読まないです。だから小説はオーディブル)

始めの部分の内容について書きましたが、後ろの方に飛びます。

保護者は学校を変えられるのか?

p191
【保護者が学校を変えたい、と思ったら】
のところ。

・保護者に情報が届かないので情報提供をして欲しい
・親は孤立して困っているので親同士を繋げて欲しい
・先生や教育委員会の方と立場を超えてフラットに対話、情報交換が必要

と、3年くらいこの3点セットを言い続けて来た訳ですが、うーん・・・

これ、学校に対して私の言い方が悪いのかなとも思ったんですが、これ、全国でこの状態。
校長の反応とか、全国共通で面白いとさえ思いました。なんか滑稽というか。不思議というか。

で、これ、工藤先生的にはどう思われるのか

「やはり最後は、教員や校長次第ですね。学校内部にある程度理解者がいないと正直難しいと思います。僕も保護者の立場だったとしてやりきる自信はありません」

とのことでした。
ですよね・・・

先生の意識改革についての話。
直接工藤先生が意識を変えることはできないけれど、何をやったかというと
「矛盾を起こさせること」
自分の中の矛盾に気付くことが起爆剤になる。

とのことでした。

意識改革は3ステップあって
・自己矛盾が起きるフェーズ
・優先すべきものを自問自答するフェーズ
・矛盾しない自分に変わっていくプロセスを考えるフェーズ

不登校のことであれこれやっていると、学校の矛盾をすごく目の当たりにするし、それって逆じゃん、みたいなものが見えちゃうんです。
それは先生を責めたいとかではなくて、
「それやってると苦しくない?」
という感じがするのですが、これは毎日の子どもとの関わりと同じで、
こちらからは
「それっておかしくない?」「こうするといいよ」
というのはやっぱり言っちゃダメなんだろうなと。
でも、大人だから言えば分かるんじゃないかとかも思うけども。でもやっぱりそうじゃない。

ながめていると「自己矛盾が起きるフェーズ」に至った人は、ハッとされるんですよね。
その「ハッ」だけで大方伝わったっていう手ごたえがありますが、そうじゃない人は、言い訳とか回避が多いです。(ものすごくご自分を守ることに必死で、でもそれって逆に守り切れてないですよねと心配になります)

ということで

・発信し続ける
・知りたいと思う人に伝わるように

ということに着地しました。
それが私の場合はLINEのオプチャという形になりました。

そのチラシも市内の学校の先生向けに配りました。
先生方の役に立ててもらえたらいいなぁ。

自己矛盾が起こるフェーズ

子どもが不登校になって、親は強制的にそのフェーズになっていきますよね。

先生方は、不登校の子をたくさん見てこられたかもしれませんが、不登校の子を見て、話を聞いても「自己矛盾」には繋がりにくい人が多いのかも。
なんとかしようとはするし、働きかけはするけど、それができないならどうしようもないよね、で終われる。また学年も変わるし。自己矛盾に気付くフェーズまで深めにくいし、そんな暇がないだろうなぁ。だけど、そこを今ちゃんと見ていくことで、仕事でものすごく応用が効くような気が私はするんですけど。それで仕事量が減るとかもあるような。

工藤先生は
「何のためにするの?」
というのを多用されるので、不登校のことで当てはめると

・先生の不登校対応は何のためにしていますか?
・校内フリースクールは何のためですか?
・教育支援センターは何のためにありますか?
・家で勉強した分を評価する仕組みができましたが何のためですか?

などなど、本質的な答えをみんなで見つけなきゃいけないのに、そもそもそれが出来てない感じがあります。

全国的にこういうことを不登校支援として取り組んでいるから・・・
みたいなところでやっていませんか?
と思うのです。

他の自治体を参考にすることは大切ですが、今一度本質をみんなで考えてから不登校支援をしないと、多くの教員のリソースを無駄に割くような気がして、それはもったいないなと思うのです。

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