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ギフトシェアの概念が世界を変える

ギフトシェアという言葉を聞いたことがあるだろうか。お金というツールを介したモノの等価交換から、自ら進んで与えることを前提とした贈与循環を目指すもの。

聞こえは良いけどなんだか綺麗事みたいに感じてしまったり、実際にそれが成立するのかどうか疑問だという人もいるかもしれない。

私も最初そうだった。そこで、実際にこのギフトで成り立つ世界を体験してみたところ、確かにこれからの時代を変える可能性がある面白い試みだということが理解できた。ここでは体験を通して学んだことから、ギフトシェアが持つ可能性についてまとめてみたい。


▶︎ギフトで成り立つ場所musubi

私が最初にその世界観に直接触れたのは、友人の龍見亮太(Rio)が淡路島にmusubi(ムスビ)というギフトで成り立つ場所を創ると聞いた約2年前。

musubiは自然豊かな兵庫県南あわじ市にある3階建ての洋館で、訪れた人が交流を楽しんだり、宿泊したりできる。ユニークなイベントが連日開催されていて遠方から足を運ぶ人も多いが、そこではなんと宿泊代が請求されない。

それは先に訪れた人が、顔も名前も知らない自分のことを想って既に支払ってくれたというのだ。musubiを訪れた人は、まずはそんな風にその空間でただ与えられるという経験をする

そして、宿泊後に自分も誰かにギフトを贈りたいと思えば、贈りたいと想った分だけギフトできる。もちろんこれは強制ではなく、次に来た人にギフトを循環させるチャンスだというお誘いを受けるのである。

ここを創始したRioは、四国で歩き遍路をした時、この着想を得たという。

四国にはお接待という文化があり「自分の分までよろしくお参りください」という気持ちで進んでお遍路さんをもてなすが、Rioも、地元の人たちから有り余るほどの食事や宿泊を提供してもらい、感動したという。

何の見返りも求めず与え続ける四国の人々を見ていて、人は本来、与えることに喜びを感じる生き物なのではないかと感じたものの、都会ではなかなかその感覚を持ちにくい。


この差は何かと考えたとき、そういう文化があるかどうかの違いかもしれないと行き着いたのだそう。「おばあちゃんもやっていたし、お母さんもやっていたし、周りの人もやっているから」自分も自然にするという、これこそが文化というもの。それがあることで、人は本来持っている潜在的な力を発露させることができる。

そうであれば、四国以外の場所でも、与えることに喜びを感じられるようなギブ・アンド・ギブの文化を創り上げることで、この優しい世界が広がっていくのを見てみたいという想いから始まったのがこの場所なのである。

世界を見渡すと、アメリカでインド人男性が立ち上げたカルマキッチンというレストランも、同様のシステムで運営されている。

二つのサービスに共通するのは、先に受け取り、自分の中から与えたいという気持ちが溢れ出た場合にそれを誰かに贈ることができるプラットフォームがある点と言える。

このようなギブ・アンド・ギブの循環による運営を目指す場が、今、世界中で同時多発的に増えている。


▶︎私も主催イベントでギフトシェアを体験してみた


ギフトシェアの概念を何となく理解したころ、まずは自分にできる方法で、実際にこの世界観を体験してみたくなった。そこで、自分が主催するイベントの参加費にあなたが感じた分を(お金でもそれ以外の方法でも)くださいというギフト制を取り入れてみることにした。

主催者としては、当然ながら、必要経費が回収できなければ赤字になるわけだが、ギフト制となるとそもそも予算とか収支という考え方が消える。

ふだんはイベントを企画するとき、全体の流れや収支を事前に細かく考えておく方だったので、同じようにいつものやり方で取り掛かろうとして、途中でそれだと無理があると気付く。

ただ、その企画の内容には自信があったので、参加者にその価値さえ伝わればきっと帳尻は合うようになるだろうと信じ、最後はもう全部天に委ねるしかないと放り投げることに(笑)。


イベントというのは生き物みたいなところがあり、いくら事前に準備をしていても蓋を開けてみるまでどう転ぶか分からない。それが怖くもあり、面白いところでもある。ギフト制で回すとさらにその感覚が強くなる。


さて、その結果、どうなったかと言うと、ふだんのイベントと少し違った雰囲気が生まれてきたのだ。参加者が「何かできることありませんか」と設営や送迎を積極的に申し出てくれ、主催側のこちらもそれを気兼ねなくお願いできるという主催者と参加者の境界が曖昧になった感覚が生じたのである。

全員が頭の片隅に「自分ができることは何か」という問いを置いたまま動くので、無理なく心地よいコミュニケーションが生まれる。

同時に、自分ができることをするというのは、それによって誰かに感謝されるという体験も伴うのだと気付く。それが全員を包み込むようなあたたかい空間を生み出す。


お金による等価交換では、お金を払った時点で自分からお金が離れていったという欠損状態に陥り、それを取り戻そうとする心の動きになる。消費とはそういうものかもしれない。


しかし、贈与循環の世界では、まず主催者が世界(参加者)を信頼して、イベントというギフトをする。それに呼応する形で参加者がそれぞれに受け取ったものを投げ返す。

そんな風にしてお金を循環するものとして捉えると、得か損かといったこれまでの価値観とは全く違う世界が広がるのを感じた。


▶︎実際には何が得られたのか


結論から言うと、これらのイベントは成功したと思う。予算や収支といった計算を手放して、最後は天に委ねてみたら、想定外のところから考えもしなかったものが還ってくるという面白さ。そこに醍醐味を感じた。

さらにお金の面でも、会場費や講師料、諸経費なども問題なく支払うことができた。


これに関して特に興味深かったのが、この機会にお金にまつわる様々な人の感情に触れたことである。明らかにギフト制というものに対して抵抗というか、心がざわざわする感じを覚えたという人もいた。金額を決めておいてもらわないと困る、自分で決めるのは何だか恥ずかしいという戸惑いの声や、支払った後、これだけしか出せなかったのは失礼だったのではと後悔したり、主催側にどう思われているかと気にされている様子があったりもした。


そういう様子を見聞きしながら、ふと思い出したのは、海外のマーケットで買い物をする時の感覚だった。そこでは、どの商品にも金額が表示されておらず、店側がこちらの足元を見ながら値段をふっかけてくる。

それに対し、小銭入れの中に入っている金額や、これまでの経験を元にして値下げ交渉して、互いに納得する価格で折り合いをつける。その空間では、誰もためらいや抵抗を見せることはない。それが当たり前の日常だった。


それに比べると、日本で生活していると、価格というものは最初から決まり切ったものだと感じられてしまう。私たちは、消費者としてはいくら欲しいとか、いくらが適当だとかを考えたり議論したりする機会が乏しい日常を送っているのかもしれない。


ためらいを感じたのは主催の自分も同様で、初めのころは、通常なら1万円近くで提供していたりする内容でも「あ、厳しかったら三千円くらいでいいよー」とかつい言いたくなる謎の感情に襲われた。ギフトシェアでは与えることにフォーカスしたい訳だから、いっそ無料でもいいんじゃないか、という声が自分の中から聞こえてきたりもした。

しかし、自分が目指したいものはそれとは決定的に違うと途中で気が付くのである。単に財布に優しく参加しやすい値段設定のイベントを創りたい訳ではない。提供したいものが明確にあるし、それに価値を感じている。

そこで、自分を足止めしていた感情をよく観てみると受け取ることへの怖れだった。もう少し突っ込むと自分の価値を認めるということかもしれない。主催者は与えることにフォーカスするのと同時に、最後にきちんと受け取らなければ、循環の輪を完成させることができないのだ。


お金というのは鏡みたいだ。自分の怖れとか感じていることがそのまま映し出される。口では綺麗事はいくらでも言える。だけどいざそれでお金が動くとなると人は途端に慎重になる。そして「今は必要ないんじゃないか」とか「優先順位としては」とか次々に思考の声が出てきて足止めをする。


思考の声に巻き取られるのではなく、自分がどうしたいのかを感じること。そして必要な金額が明確なのであれば、それを素直に提示し、受け取ろうとする姿勢をちゃんと持つことも、気持ちよい循環を生むためにはすごく大切ということを学んだ。


ギフト経済やギフトエコノミーという言葉も流行っているが、ギフトシェアも含め、これらが貨幣経済へのアンチテーゼのように語られるのに私は今は違和感がある。現時点でこれらを実践しようとすれば、よりお金というものに向き合わざるを得ないのが現状だと感じるからだ。


▶︎お金による等価交換を超えた世界とは


さて、そうとは言ってもギフトシェアで一番強調したい点はここである。


参加者の中には、今は金銭的に余裕がないので代わりにと言って、高品質なオリーヴオイルを持参された方がいた。後でかなり高価なものだったと知って驚いた。その後、私はそのオリーヴオイルのお陰で毎日最高のサラダを戴けることになったのである。味わうたびに「あのイベントやって良かったな〜」と感じるほど、これにはものすごく満たされた。

そして、その気持ちが本当に強かったので、別のイベントを主催したとき、その方にこっそり割引価格を提示しして喜んでいただいたりもした。

これは簡単な一例に過ぎないが、丁寧にやりとりを紡いでいくうち、自分ができることでこの人に喜んでもらえることは何だろうと自然と考えるようになっていく。物やサービスを買う時にあった自分にとって損か得かといった感覚が消えていき、純粋に喜びにフォーカスすることが増えたのだ。


ギフトシェアを通して私が体感したのは自分が世界に放出した与えるというエネルギーは、どういう形をとるかは分からないけれど巡り巡っていつか必ず自分に還ってくるという感覚だった。それは世界に対する信頼と言える。


Rioによると、musubiを始めたころ、「ギフトシェアの世界観ってこんなにあったかいんだね!体験できて良かった!ありがとう」と言って何もギフトせずに帰って行く人が続出した時期があったそう。中には「価格が自由ってのはつまりタダでいいんでしょ」と簡単に捉える人もやっぱりいる。一方、「感動した」と言って想定以上の金額をサッと置いて帰る人もいたりする。

そんな風に相手のリアクションは様々で、そのたびに一喜一憂してしまうのが人間の感情だと思う。

だけど、続けていくうちに、やがて目の前の人から何が返ってくるのかというのはあまり重要ではないことに体験的に気が付いていく。するとより純粋に目の前の人に与えるという行為にフォーカスできるようになる気がする


▶︎ギフトシェアの本質にインドで出逢う


インドを旅している途中で、思いがけずギフトシェアだけで生きている男性に出逢った。みんなにスワミと呼ばれて慕われている彼は、この世界を生きていくのに必要なものはすべて世界が与えてくれると心から信じて、なんとジャングルで野宿生活を送っていた。

周囲の人に聞くと、彼は見かけるたびに新しくそれもクオリティの高い服を身に付けていて驚かされるのだとか。いつも笑っていて「明日どうしよう」みたいな不安が一ミリも感じられないスワミ。その子どものように無邪気な在り方はそれだけで説得力があった。

彼は大きな循環の一部として生きている。自分は繋がりの中に生かされているということが信じられれば、絶対的な安心感に包まれるのだろう。


必要な物を買うにはお金がかかるからたくさん稼がないといけないと考えていると、稼いでも稼いでも足りないという感覚が消えない。

一方で、必要なものはすべて与えられるし、自分には与えられるものがたくさんあると信じて生きることができれば、豊かさに生きることができる。


私たちは既に壮大な循環の中に生きている。しかし振り返ると、いつも固定で入ってくる給料からどれだけ少なく消費できるか、それでどれだけ自分が得ができるかみたいな意識で生きていたように思う。

同じようにお金を払う場面であっても、自分が良いと思うものに一票を投じる意識でエネルギーを与える感覚が持てれば、豊かさの循環の中に生きることができる。

ギフトシェアの世界観が教えてくれたものは、意識の持ち方を変えることで自分の世界の捉え方を全く違う認知に変えられるということかもしれない。そして、そのためには特別な場所に行ったり、特別なことをしたりする必要はないのかもしれない。

そうとは言っても、世界に自分を差し出すには勇気が要る。
なかなか簡単には疑う気持ちが拭えなくて、「ほんとかよ」って問いながら、私たちは信じられるようになるまで何度も何度も飛び込んでみるのだろう。

自分の世界を変えていくには、体験を通して自分の内側で感じるほかない。


ギフトという言葉には贈り物才能という二つの側面がある。才能というのも天からの贈り物と考えると、それぞれが生まれながらにして授かっている才能を分かち合うことがギフトシェアの本質と言える。

この世界の循環の中で自分が与えたものが誰かに受け取られること。自分にしか表現できないものが互いに気付きをもたらし、誰が欠けても完成しない三次元の世界を全員で組み立てていくこと。

この試みは、個としての肉体を持って生まれてきた私たちが、この世界でどうやって自分のギフトを生きて、どうやって再び繋がり合ってゆくのかを探るためのプラットフォームになりうるのではないかと私は期待している。

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