夏まつり。幼少期に思いを馳せる
僕は夕方に理由もなく散歩へ出かけた。
ただ、この絡みついた心を無くしてほしい。そんな想いだけを抱えて町の中を歩いていた。
そしたら、ある程度歩いたところで、とある小さな公園にこどもが沢山集まっているのを見た。何だろう。と思い、近づいてみたら町内の夏まつりが開催されていたようだ。提灯や屋台の明かりが、夜空に赤い光を照らしていて幻想的な景色だった。
夏まつりを見るなんて何年ぶりだろう。僕は気持ちに余裕がなくなってから、人が幸せで楽しそうなところを見ると胸が苦しくて、気がついたら避けるようになっていた。だから、まつりやイベントがあると、ひとりで気持ちをふさいでいて、「どうして僕は何も楽しめないままなんだ」と自分に問いかけていたように思う。
だけども…この日は違った。
僕は足をとめて、まつりを近くのベンチに座って見ることにした。まつりの中では、こどもたちが水風船をもって走り回っていたり、地元の人たちが活気づけようと焼き鳥をもって色々な人に声をかけていたりをしていて、どうにか盛り上げようと頑張っていた。そんな姿をみて、失礼だけども笑みがこぼれてしまった。
そういえば、僕もこどもの頃はたくさんの友達をさそって、一緒に屋台をまわったり、水鉄砲であそんでいたりしていたな。とおもいだして、僕の中にあった幼少期の思い出が、胸の中に少しずつあたたかさを戻すような感覚があった。
そうだった。僕も昔はすべてが楽しくて、明日がまちどおしいと思えるほど、充実したまいにちを過ごしていたんだ。そんな大切な思い出が、大人になるにつれて薄れていき、おもいだせなくなっていた。そして、いつの日か僕はぼくのことを許せなくなっていて、生きていてもいい事なんかない。そんな悲観的になるほど、追いつめられていた。どうして何だろう。今はわからない。
そんな過去のことをベンチでおもいだしていると、
とつぜん自分もあの中に入りたいと思いはじめて、気がついたら水風船を買う列に並んでいた。
いい年をした人が、こどもと家族づれが多くいるなかにひとりで並んでいるのだから、はずかしい気持ちでいっぱいだった。でも、その時はどうしても欲しくて仕方がなかった。もしかすると、一つの思い出として形にのこしたいと無意識に思っていたからかもしれない。販売所につくと、売っているおばちゃんが「あんた、ひとりでくるなんて面白いね。この青い色の水風船あげるよ」と言ってくれて、実質無料でもらえた。
その後は、僕も満足をしてまつりの屋台をめぐったり、やぐらの上でおどる踊り子の姿を見ていたりをして、なんやかんや楽しんでいた。
ときおり、走っているこどもにぶつかってしまったけども、ぶつかったこどもが昔の僕をみているような気がして、怒りよりも懐かしさが込みあげていた。
21時になると賑やかっだったまつりも静まり返っていき、片付けの準備がされていた。だから、僕もしたくをして、このまま帰ることにした。
そしたら、ふいに右目から涙がこぼれた。
まつりが終わるのが悲しかった。
この思い出がまた風化して、忘れてしまうかもしれない。また冷めた現実にもどって、こんな生きづらい世界をひとりで歩んでいかないといけない。そんな不安が一気におそってきて、帰りたくなくて泣くこどもと同じように、僕もその場でうずくまってしまった。
だけど、ひとりすすり泣きながらも、幼少期のころの美しい記憶は本物だったことを知れた。絡みついた心も、紐解かれていた。だから、また前に進まないといけない。この思い出を忘れないように文章としてのこすんだ。そんな想いだけを抱えて僕は家に帰った。
将来の僕へ
まだ世界には美しいものが沢山あるんだよ。
こどものぼくが教えてくれたんだ。
その記憶だけは忘れないでいてね。
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