【日常で思うこと】はみ出し者
やる気がでない。
仕事なのに。締め切りが迫っているのに。
「とりあえず手を着ければ次第にやる気が出てくる」
という言葉を、どこかのコンサルタントが言っていた。
「やる気が出るから“やる”」のではなく「“やる”からやる気が出る」のだと。
ためしにキーボードに手を置いて「5分、頑張ってみよう」と意気込んでみた。
でも、すぐに力尽きた。
時計に目をやると3分しか経っていない。
このところ、タスクを詰めこみ過ぎていたから、疲れているのかもしれない。
朝の筋トレ、いつもより頑張り過ぎたのかもしれない。
一昨日、友人と会った際に飲み過ぎたかもしれない。
アレコレできない理由を考えて、ぼんやりしては、また少しだけ手を動かしてみる。
ーー思い切って今日は休もう。
ーー回復した頭と身体で、明日フル回転で仕事をしたらどうか
という考えも過ったが、明日気力が回復している保証なんてどこにもない。
このままでは確実に締め切りを過ぎてしまう。
危機感をおぼえながら、風化したレバーのように固くなった思考をなんとか動かし続ける。
仕事が終わったのは、23時近く。
PCモニタから目を離すとオフィスには誰もいなくなっていることに気づいた。週明けまでに提出しなきゃいけない計画書の出来はいまいちだった。長時間労働の割には、大した成果もない。
意識の高いビジネスマンに
「お前のせいで、日本の生産性は上がらないんだ」
と怒られそうな日だった。
オフィスを出て駅へ向かう途中、後輩と会った。部署は違うけれど、同じフロアにいる女の子。駐車場の自動販売機に背中をもたれて、星のない夜空を見上げていた。
相当酒が入っているのだろう。街頭は彼女の虚ろな目を照らしていた。
ぼくの職場の男女比の割合は9:1ぐらい。ほとんど男社会だ。
若手からベテランの中年社員まで、若い女性社員に対して必要以上に近づこうとするのが見られる。
それを武器にして仕事を自分の有利に進める女性社員もいる。一方で、指導という名目での必要以上のコミュニケーションに、ただストレスを溜める彼女のような社員もいる。
社内でもセクハラ・パワハラが声高に叫ばれているが、愚かな本能は簡単には消えてくれない。デートへの誘い。恋人の詮索。
ぼくは、若い女性社員には、なるべく関わらないようにしていた。自分が理性の人間であると強調したいわけではない。スケベ心だってないわけでもない。
でも、ベテラン女性社員からセクハラに対するグチを散々聞かされてきたので、必要以上に近づくことへのデメリットは理解していた。
素っ気なく、卒なく。
表面上の愛想でやり過ごす若い女性社員。それを好意をみなして近づく男性社員。嫌悪するベテラン女性社員。
誰に加担するわけでもなく、全員と距離を置くようにしている。そんな自分を卑怯者だと思う。
今回も気づかないフリをしてやり過ごすつもりだった。
そもそも、疲れていて誰とも話したくなかった。
目を合わさずに、通り過ぎようとしたが呼び止められた。
腕をつかまれる。オフィスでは見せない冷たい表情。
「今、無視しましたよね」
酒臭い息が顔にかかる。
足元がふらついて、通行人にぶつかりそうになる。今度はぼくが彼女の腕をつかんだ。
「相当、飲んでるね」
「はい、クソみたいに飲みました」
やけ酒だ。カレシと喧嘩でもしたのか、それとも日々職場でのストレスを晴らそうとしていたのか。
「家、どこ? もう帰った方がいいよ」
腕をつかんだまま、駅へ向かった。
電車の中で、彼女は無言だった。
喋る気力がないのは、こちらも同じだ。
体臭と疲労に満ちた車内で、彼女が足元から崩れ落ちそうになる度に、脇に腕を入れて支えた。
彼女の自宅の最寄りの駅に降りる。
「気をつけて」
改札を出たところで、抱えていた腕を離す。家まで送るつもりはなかった。
「あんまり優しくしないでください」
彼女はつぶやいた。
新入社員時代、ぼくは信頼していた先輩社員に同じようなことを言った。
今日のような寒空の下で、自分のプライドを保つために苦し紛れに口にした言葉。昔のことで忘れていたけれど。
「ごめん」
自分の行いが誰のためにもなっていないことに気づいて謝った。
「いいんです。わたしの方こそ、すみません」
「おやすみなさい」と、目を逸らしたまま、彼女は暗い道に向かって進みだす。おぼつかない足取りで、途中ヒールがつっかえて転びそうになっていた。
背中が見えなくなると、ぼくはプラットホームへ戻り、終電車を待った。
明日、彼女はいつものように笑顔を浮かべて出社するのだろうか。
重たい疲労感を引きずったまま。
了