(日常で思うこと)ドーナツの穴の存在価値
うろ覚えなのだが…
以前、村上春樹さんが読者からの質問や感想にこたえるWEBサイトがあった。そこに投稿してきた5歳ぐらいの子どもに向けて、彼はこんなメッセージを返していた。
ーぼくはドーナツが大好きでよく食べます。特にドーナツの穴が好きです。君はどうですか?
細かいところは覚えていないが、確かそんなニュアンスだったと思う。
学生時代に読んだ時、特にコレといって思うところはなかったが、何故か頭の中に残っている。
あれから10年以上経ち、ぼくは自分の息子に名前をつける機会があった。
子どもの性分・呼びやすさ・画数など考え、病院の廊下で油性マジック片手に大学ノートにいくつもの候補を書き連ねる。
◯光り輝く人生の謳歌
◯世界規模での活躍
◯賢く、魅力的な人間性
先に子どもができた友人達から訊いた名前の由来を思い出してみたが、どれも自分の子どもとなると、しっくりこない。
息子に対する期待は数多くあるが、
まずは他人に極端に迷惑をかけず、税金さえ収めてくれればいいや
と思っていた。
なんか、もっと、こう……大物感を出さずに、ごく平凡で謙虚でいられるような。
妻の意向も考慮に入れながら、何時間もノートと睨めっこしていた。
そんなとき、村上春樹さんのドーナツ穴の言葉がフッと脳裏をよぎった。
ドーナツの穴は“ある”ともいえるし、“ない”とも判断できる。
周りに小麦粉やら砂糖やらベーキングパウダーやら……を練った生地が輪の形になっているからこそ、中心部分の存在を認識することができる。
それは一見、空虚なものに見えるが生地を油で揚げる際に、均一に熱が通るためには必要なものだと考えると、この社会で生きる自分も同様だと思えてきた。
周囲の人々があってこそ自己を確立できている。
名前をアレコレ考えていたつもりが、ドーナツの穴の概念になり、やがて円を描いて元の思考に戻ってきた。
そして、息子に願うドーナツの穴のような人物像が浮かんできた。
一つ目は
周囲の人間によって、自分が支えられているという恩を忘れないこと
二つ目は
それらの人々が困ったとき、自ら手を差し伸べる気持ちを大切にすること
それらを意味する漢字をあてて、名前をつけた。
ノートを閉じたとき、ぼんやりと思った。
この願い通りに育ったら、息子は苦労するだろうな、と。
「恩」は返したり、バトンのように次の人に渡すことも大事だが、それに縛られると「義理」となり心が窮屈になってしまう。
これから、今とは違った資本主義のシステムができあがり、競争はさらに激化するだろう。
そんなとき、誰かに手を差し伸べる行為は本当に辛く、負担の大きいことになるかもしれない。
だけど他者の足を引っ張ったり、追い抜いたりして「俺が俺が」と自分の成長や成果だけに捉われたり、周囲に無関心な人間にはなってほしくなかった。
もしかしたら、村上春樹さんはメッセージを送った子どもに、そのことを伝えたかったのかもしれない。
考えすぎだろうか。
日に日に成長していく息子を見ながら、そんなことを思い出す。
了