【小説】白い世界を見おろす深海魚 46章 (いつもの消えるような別れ)
【概要】
2000年代前半の都内での出来事。
広告代理店に勤める新卒2年目の安田は、不得意な営業で上司から叱られる毎日。一方で同期の塩崎はライター職として活躍している。
長時間労働・業務過多・パワハラ・一部の社員のみの優遇に不満を持ちつつ、勤務を続ける2人はグレーゾーンビジネスを展開する企業から広報誌を作成する依頼を高額で受ける。
そんな中、安田は後輩の恋人であるミユという女性から衰退した街の再活性化を目的としたNPO法人を紹介され、安価で業務を請け負うことを懇願される。
人を騙すことで収益をむさぼる企業と社会貢献を目指すNPO法人。2つの組織を行き来していく過程で、安田は理不尽と欲望に満ちた社会での自分の立ち位置を模索する。
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46
塩崎さんが会社を辞めた。病気が回復して出社を再開したときから、辞める予定で仕事の引き継ぎをしていたらしい。
ぼくは、そのことにまったく気づかないでいた。朝、彼女とエレベーターで一緒になった際には普通にあいさつをして、休憩室では世間話をした。いつも通りの毎日。ぼくには事前に退職することを伝えずに去っていった。社内では一番信頼し合える関係だと思っていたのに。
裏切られて、取り残されたような気分だった。次々と辞めていった同期の顔を思い出す。一人は別の編集プロダクションで働いている。まったく違う業種の仕事をしている人間もいる。「世界中の人と触れ合いたい……」という言葉を残して、行方不明になった者もいる。
みんな現状からの脱出を図るために、行動を起こした結果だ。自分の新しい居場所を求めて、この会社から離れていく。
ぼくもこの会社にいる理由はない。ただ、なんとなく編集の仕事を目指して入社試験を受けて、営業課に回されただけだ。理不尽な罵倒、重圧、わずかな睡眠時間。それらが錆びついたメトロノームのようにおぼつかなく、ただ延々と続く毎日。
周りの社員もそうしているから、それが当たり前に思えるようになっていた。他人と比べたってしょうがない。労働とは疲労や頭痛、ときには自殺願望が湧くほどツライものだ、ということを自分自身に言い聞かせている。淡々とした苦難から逃げ出した先には、また新たな淡々とした苦難が待っているだけなのだろう。
塩崎さんのデスクは、来月からやってくる派遣社員が使うことになった。彼女が辞めてから2日後、周囲にある備品は、ぼくが片付けることになった。それが、彼女のためにできる最後の親切だと思ったから。デスクを整理しているとき、引き出しの隅から錠剤の入ったケースを見つけた。黄土色のアルミに『アナフラニール』という文字。その錠剤の名前が気になりインターネットで調べてみると『気分の波を抑えるための、うつ病患者が飲む精神安定剤。脳内の神経伝達物質であるノルアドレナリンとセロトニンの量を増やし、神経の動きをよくするもの』と、書かれていた。
こんなデリケートなものを、塩崎さんが机に忘れていくとは思えなかった。なんらかの意図があって置いていったのかもしれない。でも、なんのために? ここに勤める社員に向けたメッセージなのか。
会社の帰り。夜道を歩きながら、塩崎さんに対してなにもしてやれなかった悔しさが目の奥から熱く滲んできた。ぼくは頭の中で勝手に、強く前向きな彼女の姿を作り出していた。あの笑みを思い浮かべると罪悪感と切なさで胃が痛み、軽い吐き気をおぼえた。
ぼくは、彼女に何もしてやれなかった。
人付き合いが苦手なぼくに近づいて、彼女は交流を持とうとしてくれた。同期という理由だけで。それなのに。ぼくは、バカで人を気づかうこともできない人間だ。本当は塩崎さんに嫌われることをなによりも恐れていた。だからこそ一歩引いた付き合いをしてしまったことを後悔した。
ごめんね。
彼女にそう言いたかった。電話で伝えようと考えたけれど、できなかった。今さら連絡を取ってどうするんだ? ただ単に彼女を困らせるだけじゃないか? お互い気まずい雰囲気になって、呼吸の音すらも殺している。そんな様子が浮かび、ぼくは一度開いた携帯電話をポケットにしまった。もう彼女とは一生会うことはないだろう。
空を見上げると月が見えた。月を眺めていると塩崎さんのことを思い出すようになった。
なぜだろう?
彼女と一緒に月を見たことがあっただろうか。いや……ない。
それなのに排気ガスで煤けた月を見上げると、胸が痛んだ。
つづく
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リアルだけど、どこか物語のような文章。一方で経営者を中心としたインタビュー•店舗や商品紹介の記事も生業として書いています。ライター・脚本家としての経験あります。少しでも「いいな」と思ってくださったは、お声がけいただければ幸いです。