「できない自分」でもいいんだって思える子になってくれたら嬉しい
うちの夫の母親、つまり義母の愛情は海より深い。
母親に愛されて祖父母や兄弟に囲まれて育った夫は、芯の強い人間だ。
ちょっと無神経で自己中でガサツで時間や期限にルーズでだらしないけど、平和主義で愛情深くて優しい。
「他人は他人、俺は俺」の思想がいつでもブレない。
人目を全く気にしない(おしゃれはたまに謎に気にしている)。
できないことがあっても「だから?」という感じ。
できる人は素晴らしい、できない俺も素晴らしい。
できるできないが人間の価値を決めるわけじゃないし。
そんなのどうでもいい。
ていうかそんなこといちいち考えたことねーし。
という。
劣等感という感情があまりないらしい。
そもそもあまり深刻にものを考えないタイプである。
都市部の核家族の一人っ子であり、生まれた瞬間から劣等感まみれで息をするのも苦しかった私の対極に位置する人間だ。
あれができない、これができない。
できるようにならなきゃ。
練習しないと。
頑張って練習したってこの程度。
やっぱり私は駄目だ。
こんなんだから、駄目人間って呼ばれるんだ。
いつでも「できなかったこと」が頭の中を支配している。
無能のくせに生きていてごめんなさい。
学生時代、愛情深い家庭に育った友達に「いつも何と戦ってるの?」と聞かれたことがある。
そう、ずっとずっと何かと戦っていた。
他人と比べて上か下かとか、
親に対して誇れる自分かとか、
価値ある人間になるためにはどうすればいいのかとか。
もう疲れてしまった。
もう無能でいい。
それでいい。
誰も自分のことなんか見てない。
そんなこと考えるだけ無駄だし、自分が自分のことを認めてやればそれでいい。
娘が成長するにつれ、「できる」「できない」が少しずつ浮き彫りになってくる。
運動、勉強、音楽、工作、ダンス、友達の多さ。
褒め言葉として「できたね!」という言葉はどうなんだろう、と最近思い始めた。
できなくたっていいんだ。
できるように練習することもそれはそれである程度大事だ。
大事なんだけど、できない自分も認められるようになることが一番大事なんじゃないか。
自分と他人に線を引くこと。
自分に軸を持つこと。
どんな能力よりもそれが大事だなって、いまさら思う。
どんな素晴らしい力を持っていても他人と自分の境界が曖昧だといつか心を壊してしまう。
何か「できない」ことを子どもと一緒に練習する時、
「できたら楽しいけど、できなくてもあなたは素晴らしいんだよ」ということを毎回必ず伝えたいと思う。
努力するのは大事なことだ。
けど、それを人間の価値に結びつけてはいけないというか。
私がこうやってぐだぐだ考えているのに、夫は鼻をほじっておならしてお菓子を食べている。
娘が発表会であれをやるこれをやるとか緊張するとか喋っているのを聞いているのかいないのか、生返事である。
変に気合いの入った親より、そんな感じの接し方の方が肩の力が抜けていいんだろうか。
大体、親が子どもの人生をどうにか良くしてやろうというのが無理な話なのかもしれない。
過干渉マインドなのかも。
環境を整えてやることはできるけど、それ以上のことは本人がやるしかない。
適度に愛して適度に放置できたらいいのに。
親というのは本当に難しい。
まずは考えすぎをやめたい。
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