【掌編小説】 残金30円の足止め
ピンポン。
残額30円。
カードをかざしてなお開かなかった改札と、その表示にギョッとする。急いで後ろの利用客へと譲り、改札横へとよけた。
他の人々がすいすい改札を通り抜けていく様子を見て、さらに焦燥感に駆られる。
自分に非があるとはいえ銀色のあのゲートが憎い。
利用客が少ない田舎の駅だ。もたもたと鞄の中を探っていると、すぐにわたし以外の人は去ってしまっていた。
そして、自分が置かれている危機的な状況に気づく。
恐る恐る周囲を見渡して絶望を理解した。
――わたし、ここ通れないかも。
正面を見据えると数メートル先に見慣れた白い機械がある。改札の向こう側。わたしが今一番使いたい入金機。それとの物理的には短い距離は、しかし頑丈な柵で隔たれていた。
わずかな望みをかけて右手の窓口を見る。朝には駅員さんが笑顔で「おはようございます。お気をつけて」と言ってくれるところ。こちらは昼間の利用客が少ない時間帯だからシャッターが降りていた。一時的な無人駅というわけだ。
希望は無慈悲に潰えてしまう。
完全に一人きりになった改札前で、わたしは途方に暮れた。
こんなことになった原因は分かりきっている。単純だ。
昨日で定期が切れていたのに、現金をチャージするのをうっかり忘れていた。
いや。昨日の夜までははっきり覚えていたんだ。その証拠にママから今日と明日の運賃をチャージするためのお金をしっかりもらっていたのに。
残金30円でも乗れるのが仇となってしまった。普段使うには気づかなかったけど、そういえばうちの駅は改札の内側にチャージするための機械がなかった。自動販売機はあるのになちくしょう。この状況でコーラは役に立たない。
昼間は人がいないような駅だ。まあそんなこともある。不便極まりないけれど。
掲示板を見ると、幸か不幸かあと5分でさっき降りてきた電車と逆の方向からくる電車が到着するみたいだ。
駅員はいない。機械も使えない。
それならば、仕方がない。
一駅引き返してその駅でチャージしてくるしかない。
あっちの駅ならもう少し大きいから駅員だって常駐してるはずだ。そこで全部精算してもらえば、乗ってきた分も乗り越した分もちゃんと払える。
余ったお金で飲み物でも買うつもりだったから、正直この差の出費は悔しい。でも完全にわたしのミスだしな。無賃乗車はダメだ。
やるべきことは決まったとはいえ気は乗らない。恨みがましくため息をついて、なんの意味もないけど残り30円のカードを見つめる。
「白井? 何してんの?」
ようやく決心がついて改札に背を向けようとした時、唐突に名前を呼ばれた。
びっくりして勢いよく顔を上げると、同学年で唯一同じ駅を使う松田が駐輪場につながる階段から降りて来たところだった。
単純にもう誰もいないと思っていたから声をかけられて本当に驚いた。
「チャージ、してなくて。ここ機械ないから……」
「ああ、なるほど」
スタスタと近づいてくる松田にもう一度驚く。松田も他の人と同じように改札を出て駐輪場まで行ったのを知ってた。珍しく昼に帰ってるのを見つけて、ホームから階段を登る時わたしの前にいるなーとは意識の端で思ってたから。でも、彼が戻ってくる理由がわからない。
そんな心の声が出たわけじゃないだろう。松田はわたしの説明に合点がいったらしく、次は丁寧にも自分の説明した。
「俺も定期切れてたの忘れてた。あと30円なんだよ。明日乗るぶんやばいから今日入れとこうと思ったの忘れて自転車まで行ってたからさあ」
戻ってきたと、笑っていう松田はなぜかわたしに右手を差し出した。意味がわからなくて顔を見ると、察しが悪いなというような表情をされる。
「入れたげるからカード渡してよ」
「ちょ、ちょっと待って」
財布から千円札を取り出してカードと一緒に渡す。背伸びをして手を伸ばすと、松田は難なく受け取ってくれた。予想もしてなかった言葉に、わたしの声は裏返ってた気がするから気付いてないといいんだけど。
わたしが手を伸ばしても届かず、睨みつけるだけだった機械で、松田がチャージをする姿をついぼうっと見てしまう。色々含めてなぜこんなことに。松田とは地域が近いのは知ってたけど、帰る時間もクラスも違うからあまり話したことはなかった。
すぐに電子音とともにカードは機械から吐き出された。自分の用事を済ます前に渡してくれるらしい。さっきと同じようにつま先立ちをしてカードを受け取る。
「ありがとう」
「どーいたしまして」
財布を鞄にしまってカードをケースに戻す。
もう一度カードをかざすと、頑なに閉じていたゲートはようやく開いてくれた。
いつもなら普通なことが、こんなにも感動的で難しいことだったとは。今度からは絶対に乗る前にチャージすると固く誓った。
自分はここを通る権利があると、堂々と改札をくぐる。松田も自分の分が終わったようだった。財布とカードをしまっている。
こっちを見たから、流れと勢いでそのまま話しかけた。
まるで大冒険を終えた後みたいに気分が高揚しているのがわかる。
「ほんとに助かった。救世主」
「大袈裟」
「まじまじ」
数メートルの距離を一緒に歩いて、駐輪場の入り口の前で立ち止まった。惜しい気がするのは気のせいじゃないだろう。
「……助かったの、ほんとだから。今度お礼する」
「期待せず待っとく」
思った以上に小さい声が出てしまったが、相手にはちゃんと聞こえたようだった。松田の悪戯っぽい笑顔を見たのは初めてだった。そのことが嬉しくて眩しい。
任せとけという気持ちを込めてわたしも大きく笑顔になる。
「またね」
「おー」
お互い別方向に一歩踏み出した、さよならの後。
だから、全くもって気が抜けていた。
「気をつけてな」
思い出したかのように、付け加えられた言葉。その声が届いて思わず立ち止まり、わたしがそっちを向いた時には、松田は制服のポケットの中で鍵を鳴らしながら駐輪場へと向かってしまっていた。
なんてことをしてくれたんだろう。もう松田はいないのに。
せっかく改札を通れたのに、また足止めだ。
(了)
お読みいただきありがとうございました!
この話は実話をもとにしたフィクションです。
駅やら通学やらの事情におかしなところがあっても、あんまりにひどくなければどうか目を瞑ってくださるとありがたいです。