22.すべてがフェイク、すべてがコメディ、映画「フリー・ガイ」のようないま。
フェイスブックの社名が「メタ(Meta)」に変更されましたね。「メタバース(Metaverse)」の世界に的を絞ってシステムを構築する方針のようです。
「メタ」とは、ギリシア語の「meta」を由来とする言葉で、「高次の」「超える」といった意味をもっています。
「バース(verse)」はラテン語の「 vertere 」が由来で、「向きを変える」というような意味だそうです。
したがって、「メタバース(Metaverse)」とは「高次に向きを変える世界」ということで、イメージできるのは「高次元の世界」といったところでしょうか。
ということは、もしかすると、私たちがいまいる「3次元(空間)+1次元(時間)」の世界より、もっと高次の次元を想定しているのかもしれません。
厳密にいえば「時間を4つ目の次元とはしない」という考え方もあり、次元の話は複雑です。
たとえば、「超弦理論」によると、この宇宙は「空間9次元+時間1次元」とされています。
ところが私たちは「3次元の肉体」を持ち、五感という視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚の情報入力器官を通すことでしか世界を認識できないため、より高次の次元を認識することは不可能に思われます。
そこで持ち出されるのが「精神」ということになります。
「精神」というと、一般的には「非物質的なもの」というイメージがあります。肉体は物質ですから、「精神」と「肉体」は対立項として語られることが多いように思います。
それと同様に、精神的な「仮想世界」と肉体的な「現実世界」も対立項として語られることが多いように思います。
しかし、よく考えてみてください。私たちが「現実世界」と思っているこの世界は、はたして本当に「現実」と言えるのでしょうか。
私たちは五感を通すことでしか世界を認識できません。それを脳で情報処理して世界像を思い描いています。つまりそれは「ホログラム」の一種と考えることもできるのではないでしょうか。
これはプラトンの「洞窟の比喩(イデア論)」と似たような考え方で、プラトンは多くの人は生まれた時から暗い洞窟の奥で壁を向いて座らされていて、その壁に映る影を見て、それが現実世界だと思わされていると唱えました。つまり、洞窟の外に違う世界が広がっていることを知らないということです。
で、その洞窟の外にある世界が「実在」の世界、つまり「現実」だと唱えたわけです。私たちが五感で把握している世界は、その「実在」の「似像(にすがた)」であるという考え方です。
プラトンのイデア論については、次の動画が参考になります。
■イデア論 洞窟の比喩
「実在」というとイメージするのが難しいかもしれませんが、「魂」「精神」「真理」「形而上」の世界ということもできると思います。
数学者にとっては数式の世界が「実在」だという人もいます。
そのように考えてみると、映画『マトリックス』の有名なセリフ「青い薬を飲めば、お話は終わる。君はベッドで目を覚ます。好きなようにすればいい。赤い薬を飲めば、君は不思議の国にとどまり、私がウサギの穴の奥底を見せてあげよう」を思い出します。
「青い薬を飲めば、元通りの生活に戻り、赤い薬を飲めば真実を知ることができる」ということなのですが、主人公は赤い薬を飲んで、現実世界で自分の肉体があるポッドの場所を突き止め、現実世界とマトリックスについての真実を知ることになります。
で、自分がプログラムされた仮想世界で生きていたという「真実」を知った主人公は、とりあえず洞窟を出て外の世界へ一歩を踏み出したということがいえると思います。つまり「洗脳」が解けたというわけです。
ところが、私の直近の経験の話をすると、反ワクチンという共通の価値観をもったコミュニティに辿り着いたまでは良かったのですが、そのコミュニティの内実を知ってみると、5Gを奨励していたり、先制攻撃を可能にしたりワクチンの強制接種を可能にする憲法改悪に賛成していたり、歴史認識が偏っていて奇妙な宗教観をもっていたり、目覚めたと思っていたら、その先に別の洗脳世界が広がっていたという、洒落にならない事態を経験したわけで、目覚めてマトリックスを抜けたと思ったら、その先に別のマトリックスが口を開けて待っていた、みたいな感じです。
しかし、私がその先の別のマトリックスを見破ることができたのは「哲学」のおかげだったと思います。思考訓練の積み重ねがなかったら、私はコミュニティの居心地の良さに流されて、新たな洞窟の世界に迷い込んでしまっていたと思います。
プラトンやソクラテスも説いています。洞窟から外へ出るために必要なのは「哲学」の力だと。
というわけで、映画『マトリックス』ではどのような「哲学」を見せてくれるかと思い、新作『マトリックス レザレクションズ』を観に行ってきたわけです。
感想としては、『マトリックス1』のようなスタイリッシュな面白さはなかったのですが、性転換して女性となった監督の個人的な哲学の部分は表現されていたと思います。
というか、映画会社もよくこれほどまでに個人的な映画を作らせたものだと思いました。会社は儲けのために監督に続編を要求したのですが、監督はアートの人ですので、儲けのために作りたくはなかったらしいという噂は聞いていました。しかし、映画会社がしつこいので個人的な映画を作ってもいいならOKという感じで作ったように思いました。前半はそのプロセスのパロディのような感じです。
ヒロインが救世主的な立場になるのも、女性として共感できる部分がありました。日本ではいま瀬織津姫(せおりつひめ)が注目されてきていますが、イメージが重なるところがあります。
また、マトリックス側の人間に「羊はいなくならない。彼らは依存と支配が心地いいのだ」と言わせて、いまの世界の現状をほのめかしていました。考えているのだと思います。
あと、女主人公が外に出て朝日が昇るオレンジ色の光景を見て「綺麗…」とつぶやくシーンも共感できました。私たちは五感を通じて入ってくる情報を組み立てて現実を把握するしかありませんが、それがすべて偽りというわけではなく、五感を通じて入ってくる情報を、「意識」を使ってどのように組み立てていくか、つまり、自分をプログラムし直していく、ということが重要なのだと思うのです。
ですから、朝日という「自然」を見て、そこからイデアの世界をどのように組み立てていくのか、面白い方向性だと思いました。
彼女の「セカンドチャンスをありがとう」という言葉も意味深です。
で、「哲学」という観点から映画を考えてみると、半年前に公開された『フリー・ガイ』というコメディ映画が秀悦だったことを思い出しました。
笑って泣いて、心を大きく揺さぶられる映画でした。
ガイという銀行で窓口係をしている男性が主人公なのですが、私たちと同様に、毎日起きて身支度をして会社へ行き、仕事を終えて帰って来るという平凡な毎日を送っています。
実は彼はオンラインゲームの中のモブ(背景・雑魚)キャラという設定で、誰にも注目されない存在です。注目されるのはゲームに参加しているプレーヤーが操るキャラクターで、そのゲームはいわゆる「バカゲー」といわれるジャンルのもので、作られたシティの中にいる人々を片っ端からバトルして(カモにして)勝てばレベルが上がるという仕組みです。
モブキャラは、その中で一方的に負け続けるという存在です。なんだか私たちの世界と似たような設定です。
また、モブキャラはプレーヤーが操るキャラクターではないので、あらかじめプログラムされた動きしかできないため、自由はありません。
毎日同じことの繰り返しでやられっぱなしガイですが、ある日、道ですれ違った女性に恋をしてしまいます。彼はその女性を追うようになり、そこから彼の生活は同じことの繰り返しではなくなっていくわけです。
ところが、彼が追う女性はプレーヤーが操るキャラクターで、彼女は実はこのゲームを作ったプログラマーで、ゲームを大企業に盗まれてしまい、著作権を取り戻すために、その証拠をゲームの中に入って探していたのです。
ガイは彼女に協力して悪者と戦おうとするのですが、なにせバトルの経験がないので、所有しているレベルが「1」と低く、戦う力がありません。女性はガイを邪魔に感じて「レベル100になったら協力してもらってもいい」と告げます。
ところがガイは「善人」という設定でプログラムされているので、罪のない人を傷つけることなどできません。そこで彼が考えたのは、罪のない人々にバトルしてレベルを上げている人々を倒すということです。つまり「徳を積む」ということで自分のレベルアップを考えたわけです。
ここからガイは自分で自分をプログラムし直していったということになります。
努力の末、ガイはレベル100に到達し、晴れて彼女に相手をしてもらえることになるのですが、喜びも束の間、ガイは自分がゲームという仮想現実の世界にいる人間で、彼女は外の現実世界にいる人間なので、決して結ばれることはないと知ってしまうのです。
ガイは絶望して、また元の同じことの繰り返しの生活に戻ってしまうだけでなく、うつ状態になって友人に悩みを打ち明けます。そのシーンが、この映画の感動号泣ポイントでした。
ガイが「ここは仮想の世界なんだ。本当の世界ではないんだ。僕はいつまで経っても現実に触れることができないんだ」と言うと、友人が「何を言ってるんだ。僕が君の力になってあげたいと思う、この気持ちは現実じゃないというのか?」と言うのです。
ここで私はなぜか涙腺が崩壊してしまいました(笑)。
たぶん、私が「哲学」で重要ポイントと考えている琴線に触れたからだと思います。そうです、人間の「意志の力」の大切さです。
ガイはその言葉に励まされ、さらに自分をプログラムし直しただけでなく、周囲にいたモブキャラのみんなにもプログラムし直しを促し、毎日同じことの繰り返しではなく、自分の頭で考えた幸せな生活を送ることができるような世界を構築していくことになり、それが彼にとっての「現実」となっていくわけです。
女性との恋は実ることはありませんでしたが、別の形で実らせたというラストも気持ちいいものでした。
というわけで、映画『マトリックス レザレクションズ』も映画『フリー・ガイ』も「哲学」の観点から観ても面白いものでした。
そして、遠い外国でも同じような道筋で思考を進めている人々がいるということを知って、いまは絶望しかないような世の中になっているように感じられる反面、かすかな希望はまだ残っているのかもしれない、と思う今日この頃です(笑)。
現実の世界に目を転じてみれば、イギリスではもうマスクをする意味がないと政府発表がありましたし、北欧でもワクチンは廃止される方向にあるようです。
ところが、日本では未だにコロナ規制が強化され、無料のPCR検査を3時間も並んで受ける人々がいたり、無症状の人々を隔離する施設を多量に作ったり、あまりにもフェイクに惑わされる人々が多くて、ある意味、滑稽というかコメディを観ているような感覚に陥ることも否めません。
しかし、私は絶望はしていません。こんな世界にいても、自分の「思考の力」「意志の力」を駆使して、知識を蓄え思考訓練を積み重ね、道を間違えずに進んで行けば、明るい光景も見えて来るのかもしれないと思っているからです。
次の風刺絵が、そこのところをよく表現していると思いました。
本当の「メタバース」とは、政府や大企業が用意するデジタル世界ではなく、私たちが「思考の力」「意志の力」を積み重ねた先に見えてくる、それこそ「高次の世界」のことなのだと思うのです。
この情報を鵜呑みにはしないでください。必ず自分で情報を追って自分で確かめて自分の頭で考えてください。
これらの情報をどのように解釈し、どの道を行くか、それはあなた次第です。
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