自分らしさを強化する
蓑虫くん、蛹化する
我が家にいる蓑虫くん。
たまたま買ってきた啓翁桜の枝に発見。
お花はとっくに散っているけど、さようならするのも忍びなくて、
そのまま室内に置いて時々観察している。
変化する様子を見るのは思った以上に楽しい。
もはや飼っていると言ってもいいかもしれない(笑)。
先日その蓑虫くんが蛹になる様子をみる機会があった。
最近まで時々ミノから顔を出しては、むしゃむしゃと葉っぱを食べまくっていた蓑虫くん。
先日初めて違う行動をした。
葉っぱエリアは何度も何度も素通りして、重そうなミノを引きずりながら枝から枝へを大移動。何かを確かめるように動き続けたのち、最後は枝の端っこで留まって、いつのまにか動かなくなった。
どうやら蛹になる場所を確保したということらしい。
命の力を見せつけられた気がした。
私にエネルギーってあるのか、疑っていた
蛹になろうとする蓑虫くんの姿をジーっと観察していて…
どんな生きものだって、外側に放つエネルギーを持っている。
生きよう、として自発的に内から発するエネルギーだ。
生きているということは、そもそも外側に向けた力は働いているはず。
翻って私は…と考えたくなった。
蓑虫くんから何かを感じ取っている自分がいる。
もはや蓑虫センセイだ(笑)。
私は、noteで何度も書いているように、
アウトプットに対する苦手意識がかなり強い。いまでも時々、書き出せるものなんて自分の中に何もないという不安に襲われる。
あまりに抑圧された育ちの影響は大きかったと言わざるを得ない。
家庭で学校で…押されて押されて潰された感覚。
大人になっても、情報やら常識やら世間やらに圧倒されて生きてきて、
自分からほんの少しのエネルギーでも湧いているのだろうか?
外側にアウトプットするエネルギーなんて残っているのだろうか?
と疑いたくなるほどだった。
でも…
私だって生きている。
だったら外側に放っているエネルギーだってあるよね?
アウトプットが苦手、アウトプットしなきゃ、なんて意気込まなくたってよかった。今こうして自分を生きてきていること自体がアウトプットだ。
そんな当たり前に思えることを口にしたくなった。
なんだか蓑虫センセイの小さな命から学ぶことの深さに驚いた。
私らしさ発見に安堵
蓑虫センセイから学んだと同時にホッとしたことがあった。
それは、小さな命から何かを得ようとしている自分を再発見したことだった。
私は日々のルーティンや業務に翻弄されて、支援者としてはその人の命の営みに携わっているのに、それがオシゴトとなると、時に淡々と進める自分もいる。
そういう日々が続くと、目の前の小さな小さな、ときには目では見えないような大切なものとその価値に気がつかなくなるんじゃないか?
時折どこからかそんな不安が襲ってくるのだ。
だから、小さなもの、目に見えないもの、些細なこと、にアンテナを張れてる自分を再確認できるとき、私はホッとする。
私が私らしさを自分の中に発見する瞬間でもある。
そして自分らしさを発見するたび、私はここにいることを再び実感して、自分の中からさらに強いエネルギーを発することが出来るような気がする。
私も蓑虫くんのように、自分のアンテナを頼りに、感じてみよう。動いてみよう。きっと楽しい旅路に違いない。