「レモンを日向ぼっこさせているの」
黄色く色づき始めた庭のレモンをひとつ、「もういいんじゃない?」と娘が無邪気に摘んでしまった。
レモンの可愛らしい形を気に入って、娘は家のあちらこちらにレモンを置いてみては笑っている。
窓辺において、「レモンを日向ぼっこさせているの」と寝転がってずっと眺めていたりする。
そんな娘の様子を見ていると、梶井基次郎の「檸檬」が無性に読みたくなってきた。
「檸檬」の舞台は京都、読みながら懐かしい路に想いを馳せる。
時どき私はそんな路を歩きながら、ふと、そこが京都ではなくて京都から何百里も離れた仙台とか長崎とか――そのような市へ今自分が来ているのだ――という錯覚を起こそうと努める。
私は、できることなら京都から逃げ出して誰一人知らないような市へ行ってしまいたかった。
第一に安静。がらんとした旅館の一室。清浄な蒲団。匂いのいい蚊帳と糊のよくきいた浴衣。そこで一月ほど何も思わず横になりたい。希わくはここがいつの間にかその市になっているのだったら。
――錯覚がようやく成功しはじめると私はそれからそれへ想像の絵具を塗りつけてゆく。
なんのことはない、私の錯覚と壊れかかった街との二重写しである。そして私はその中に現実の私自身を見失うのを楽しんだ。
現実の路の中に想像の余白を持つという感性が美しい。
「錯覚がようやく成功しはじめると私はそれからそれへ想像の絵具を塗りつけてゆく。」
檸檬もまた想像の絵具なのかもしれない。
いったい私はあの檸檬が好きだ。レモンエロウの絵具をチューブから搾り出して固めたようなあの単純な色も、それからあの丈の詰まった紡錘形の恰好も。
――つまりはこの重さなんだな。――
その重さこそ常づね尋ねあぐんでいたもので、疑いもなくこの重さはすべての善いものすべての美しいものを重量に換算して来た重さであるとか、思いあがった諧謔心からそんな馬鹿げたことを考えてみたり――なにがさて私は幸福だったのだ。
この文章を読んで、ふと落合陽一さんの「質量への憧憬」という言葉が浮かんだ。「つまりはこの重さなんだな。」という感覚とそれは通じているのかもしれない(し、そうでないかもしれない)。
かつて丸善に檸檬を置くブームを起こしたラストシーン。
純粋にレモンを愛でる娘を見た後だからだろうか。主人公のこの無邪気さも自然に受け入れられるように思えた。
「あ、そうだそうだ」その時私は袂の中の檸檬を憶い出した。本の色彩をゴチャゴチャに積みあげて、一度この檸檬で試してみたら。
「そうだ」 私にまた先ほどの軽やかな昂奮が帰って来た。私は手当たり次第に積みあげ、また慌あわただしく潰し、また慌しく築きあげた。新しく引き抜いてつけ加えたり、取り去ったりした。奇怪な幻想的な城が、そのたびに赤くなったり青くなったりした。
やっとそれはでき上がった。そして軽く跳りあがる心を制しながら、その城壁の頂きに恐る恐る檸檬を据えつけた。そしてそれは上出来だった。
積み上げた本の上に置いた檸檬をそのままにしておいて、なに喰わぬ顔をして出て行くことにする主人公。
「出て行こうかなあ。そうだ出て行こう」
そしてまた愉快な想像の絵具を塗り広げながら、路を下っていく。
丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けて来た奇怪な悪漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなにおもしろいだろう。
私はこの想像を熱心に追求した。「そうしたらあの気詰まりな丸善も粉葉みじんだろう」
そして私は活動写真の看板画が奇体な趣きで街を彩っている京極を下って行った。
気ままにレモンで遊ぶ娘を眺めていたその感覚を引きずったまま、「檸檬」を読んでみると主人公の感性がとても新鮮に、また不思議と近しく感じられました。味わい深い…。
お読みいただきありがとうございました。
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