困ったときに助けて、と言える社会に
どんなに遠くの地でも、小さなお子さんやその親御さんにかかわることで悲しいことが起きると、悲しさややるせなさでいっぱいになると思います。
それが、自分の地域で起きてしまうと〜その可能性がないと思ってきたわけではないのだけれど〜本当に苦しい時間を、地域住民もそしてこの地域に関わる皆も過ごしていることと思います。
私も、その一人でした。
しばらく心が完全に塞がってしまっていたのですが、あちこちから随分心配していただいて、前に進もう、自らの船を漕ぎださなくてはと思っているところです。
地域活動においては学校、保育園、学童、保健センターやその他と連携し始めて数年。
和つなぎプロジェクトに依頼があって、毎日のように地域にも学校にも出て行っています。
https://watsunagi.jimdofree.com/
また地域活動だけでなく、個人的にも病院やもう少し広範囲からの依頼もあって、東へ西へと。
すべてをやるのではなく、区内の別な団体さんにおつなぎしたり、病院のほうも、別の患者団体さんにご協力いただいたり、様々に連携しながら、誰かの、どこかの困った!に対応したりお繋ぎしたりする日々です。
それでも、それでも、繋がることができる人は、わずか。
困った!助けて!が、もっと言える、出せるといいな、と思います。
人を救おうだなんて、土台無理。
私がつながっていたら何かができただなんて、とても思いません。それは驕り、とても傲慢なこと。
繋がっていて、SOSが出せていて、それでも絶望の瞬間を防げない可能性だってある。
でも、それでも、繋がることしかできない。繋がることのできる人が一人でも増えるように、声がけすることしかできない。
その人の荷物を少しでもおろせるように。
荷物がおろせなくても、整理できるように。
高知さんが、こんなTweetをされていました。
困ってるほどつっぱねたり、寂しいときに人を遠ざける。困ったときに助けてもらえた経験がないならば、助けを求めることは難しいことだなと思います。心が既に傷だらけで、傷つかないように孤独を選ぶ。。。
だから子どもの頃から、困ったら助けてを言えるように育めるといいなと思う一方で、育めなかったからって助けを求められるようにならないとは思わない。それに、もう一つ。大人になった私たちは果たしてその姿を見せられているかなと。
迷惑をかけるのが人間だと、困ったら助けてもらえる、助ける、それをどこまで自然にできているかと。
私も、大きくできてます!と言えないかもしれない。
今回だって情報を遮断し、コミュニケーションを閉ざした。つらかった、苦しかったよ、が言えたのは、そこを通り過ぎてからだった。
かなり頼ったり頼られたりしているはずの私でも、こんなだ。
本当に苦しいときこそ困ったときに、助けて!を言うのは難しい。難しいから終わり、じゃなくて、難しいからこそ、やる。
小さな困った!を口に出す。
かっこつける必要なんて、ない。
子どもはとてつもなくかわいいけど、憎たらしい日もある。
夫も優しいけど、心底ムカつく日もある。
子ども達が3人いて、0歳3歳6歳のとき、途方に暮れた日があったことを思い出す。
どれだけ助けてもらったか。そして、どれほど助けてもらいたかったか。
子ども達が小さな頃ばかりじゃない。
行き詰まることは、時々訪れる。子どもに言ってはいけない言葉をかけてしまったことだって、過去にはある。
子どもが小さいうちにしんどさを感じる人もいる。
成長していくうちにしんどさを感じる人もいる。それぞれだ。
一人で子育てしている人だったら???
なんで私だけ?とどれほど思うことが自然なことか。
ヒヤリングに行くと、目の前の方が泣いてしまうことは、多い。それは私が対応するからではなく、コーディネーターが入ると、誰でも。そのくらい、子育て中は心の内が話せないことも多い。子育ての困り事は、各ご家庭で異なりすぎるから。
かえって子育て中の者同士、同じ地域に住む者同士だと言いにくいこともあるかもしれない。そんなときは誰か、どこか、信頼できる場所でわぁっと聞いてもらってもいいかもしれない。ストレスが強くなってきたら、専門家にかかるのだっていい。
もちろん、ストレスの逃し方はいろいろで、話すことだけではないのだろうけれど。
困ったときに、困ったと言える。
しんどいときは、助けてと言える。
そんな社会がいい。
そのためにまずは私が開いて、つらいときこそ周りに言わなくちゃだ。