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【セカイの思想から】上野修・戸田剛文・御子柴善之・大河内泰樹・山本貴光・吉川浩満(斎藤哲也編)『哲学史入門Ⅱ』NHK出版、2024年。

 本書は、第1巻に続き編者がインタビュアーとなり、6名の研究者と対話しながら17世紀から19世紀までの西洋近代哲学史を易しく解説していきます。

 第1章「転換点としての17世紀-デカルト、ホッブズ、スピノザ、ライプニッツの哲学」、第2章「イギリス哲学者たちの挑戦-経験論とは何か」、第3章「カント哲学-「三批判書」を読み解く」、第4章「ドイツ観念論とヘーゲル-矛盾との格闘」、特別章「哲学史は何の役に立つのか」で構成されています。
 詳論や各論は脇に置いておき、ここでは本書の重要な柱をご紹介します。


1. 自明とされている「哲学史」を再考する

 目次を見ると、大陸合理論→イギリス経験論→カントからドイツ観念論と流れていくように見えますが、本書はこうした史的な流れを自明視することに異議を唱えます。なぜならば、こうした哲学史理解が後世の人々による後付けに過ぎないからなのです。
 例えば、「大陸合理論」vs「イギリス経験論」のような構図が自明のように語られてきましたが、当代の哲学者はそんな対立構造を前提にして哲学していたのではないと上野は指摘します。むしろ互いに文通や訪問を通して積極的に交流していた。大陸合理論に位置づけられるデカルトと、経験論に列せられるロック。デカルトは生得観念を想定しますが、ロックはそれを批判する。ただ実際は、デカルトにもロックにも生得説的な側面もあれば経験論的な側面もある。単純には分けられないのであると、戸田も指摘します。
 あるいはベーコンの帰納法。単に事例を収集して共通点を抽出するのではなく、仮説を設定し不適切な事例を選別しながら一般命題に接近していくという仕組みになっていて、そこでは理性の働きも重要です。ですから、「ベーコン=経験論」とは言い切れないと戸田は説明します。ホッブズも然り。理性を働かせて経験から得た表象を計算することで知識を得る(=理性重視)のみならず、あらゆる表象や観念は経験から得られる(=経験重視)とすることから、合理論的な要素と経験論的な要素の両方を併せ持っているのです。
 他にも大河内は、ドイツ観念論の流れは「フィヒテ→シェリング→ヘーゲル」という図式(ヘーゲルが作った図式をありがたく後世の人々が自明視している)で語られることもありますが、本書ではこうした単純な見方は眉唾物であるとして退けます。これら3名の哲学者はこの順に登場したわけではなく、同時代人であり互いに影響を与え合っていたのです。
 このように、哲学史で自明視されている学派の流れや哲学者の相互関係を疑い、別の哲学史がありうるのだということを自覚することで、哲学者同士のより豊かな関係性が見えてくるのです。このことは第1巻でも触れられており、このシリーズを通底する重要な柱となっています。

2. 哲学は何の役に立つのか?

 人文系の学問が軽視される風潮が強くなってきました。人文系の分野に投入される予算、人員、設備が削られ、「社会に役立つ分野に集中して投資しよう」という流れは、哲学をはじめ人文科学を愛する人々にはたいへん憂慮すべき事態となりつつあります。
 戸田は、昔の哲学者は自分たちの思索が社会にとって必ず役に立つと思っていたといいます。約200年前には哲学は世界について扱う学問として、とても懐が広く深いものでした。「自然科学」の諸分野も未分化でした。現在は、良くも悪くも哲学の分野が細分化・専門分化されていて、日常生活や社会との接点が見えにくくなっている。
 これでは「哲学なんて何の役に立つのか? 役に立たないのなら切り捨ててしまおう」とお役所等々が考えたり、哲学を学ぼうとする人が減ってゆくのも無理ありません。学問を「文系」と「理系」に分け、経済的に有用な学問・分野を優先しようというのも、こうした流れの1つでしょう。目の前の業務を効率よく処理できさえすればよい。そんな社会になりつつあることをひしひしと感じます。
 吉川は、哲学史を拡張する試みが必要であるとして、具体的に
(1)哲学史をいまのわれわれの興味関心に応えてくれるものにすること
(2)現在の学問分類や通念を見直すこと
を提案します。
 これは容易なことではないにせよ、山本はこうしたことを実現できる博学で分野横断的な傑出した人物が登場しても、既存の枠組に押し込められないような環境が必要だと応じます。「日本でスティーヴ・ジョブズのような人物を生み出す計画」が孕む矛盾の件は、確かに枠組にはめることを重視する日本では難しいだろうなと感じました。
 「哲学の有用性」をアピールするには、以前ソトのガクエンでスピノザ『知性改善論』の講師をされた佐々木晃也さんのように、企業に哲学者の居場所を作るといった試みも非常に重要でしょう。誰しもが一定の哲学の素養を身につけ、それぞれの場所で哲学的思考を社会活動に反映できればベストですが、哲学が細分化されすぎて裾野が広がりにくい今、哲学の素養を身につけられた専門家諸氏がまず社会に入り込み、哲学を社会運営に活かす活動をされるのが現実的な解であるように思います。

 

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