Battamong-ALISrawhide

面白法人の踊る総務・社長秘書・受付嬢、YOGAteacher 、バレエ

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最近の記事

Profoundity of Age old Indian culture 古代インド文化の深淵さを学ぶ

今月のヴェーダーンタ勉強会。 ◆カルマとは 行い ならびに行いの結果をいう。また見えない結果(プンニャもしくはパーパ)を指すこともある。結果は蓄えられていく。 「祈り」は、100%自由意志を使える。どこまでを「行い」というか。身体だけでななく、言葉・考えを使う行いもある。それぞれ単独もしくは組み合わせて「行い」をしている。 頭に浮かんだだけでは、結果(プンニャもしくはパーパ)は発生しない。 それを行動に移した時点で結果がもたらされる。或いは、どう実行しようかと算段した時点

    • LAW of Dharma explained ”ダルマの法則”の解説

      今月のヴェーダーンタ勉強会。 ◆The meaning of Karma カルマの意味 カルマ=経済成長の遅れ とする誤解。ダルマという価値観があるから、秩序に沿った自分のすべきことを、自分の責任で選ぶことができる。第三者から見て「ちっぽけな」仕事も、その人は「与えられた仕事」、つまりダルマとして懸命に務めている。ダルマとカルマはコインの裏表。イーシュワラから観るか、個人の視点かの違い。 人間のみがもつ「自由意志」は実は、自由ではないこともある。本音と建て前、自分の中に矛

      • The meaning of Karma カルマの意味

        今月のヴェーダーンタ勉強会。今まで学んできたカルマの話をふたたび。 ◆小さなことでも大切な祈りになる 個々の主観で「些細な事」と思ったとしても、相手にとっては「大切なこと」であったり。大小は判断できるものではない。 自分が出来ることは、行いの選択である。行いの結果に関しては、自分の選択ができない・責任を負わない。イーシュワラにお任せする。 ◆カルマ=経済成長の遅れ とする誤解 「インド人(ヒンドゥーダルマ)はカルマを信じているから、インド経済は遅れてる」「努力してもし

        • Different types of bhaktas 異なったタイプの帰依者たち

          今月のヴェーダーンタ勉強会。 ◆好ましい状況とそうでない状況への、健全な対応 状況を受け入れる=我慢ということではない。 受け入れる=客観的にとらえて行動すること。感情的な反応に任せないこと。 失敗を恐れていると、行いが出来なくなってしまう。 自分が出来ることは、行いの選択である。行いの結果に関しては、自分の選択ができない・責任を負わない。イーシュワラにお任せする。 「お任せする」自体が、客観性を持っている。 ◆行いと祈り イーシュワラとの関係について バクティ=帰

          Healthy Response to both favorable and unfavorable situation 好ましい状況と苦手な状況、両方に対する健全な反応 その2

          今月のヴェーダーンタ勉強会。 ◆好ましい結果もそうでない結果も、イーシュワラから与えられたもの=プラサーダとして等しく受けとる そもそも「イーシュワラとは何か?」を知っておく必要がある。 「イーシュワラ=存在するものすべて。私も含む」という知識。 ◆「行い」と「反応」の違い 期待を持って何かに働きかけるとき、 ・期待が満たされる→イシュタ ・期待が満たされない→アニシュタ 「行いの結果」は、 ・自分が意図して選択した行為によるもの ・自分が意図しない要因によるもの

          Healthy Response to both favorable and unfavorable situation 好ましい状況と苦手な状況、両方に対する健全な反応 その2

          Healthy Response to both favorable and unfavorable situation好ましい状況と苦手な状況、両方への健全な対応

          今月のヴェーダーンタ勉強会。 ◆「無意識」が人生をコントロールする 意識してることは、ある程度コントロールできる。無意識はコントロールできない。無意識は、その人の振る舞い方や価値観をコントロールする。気づけることは訂正できるけど、無意識は表面化しないかぎり訂正できない。誰しも子ども時代を経て無意識にしまい込んでいるものがあり、「考え方の癖」が刻印されている。 ヴェーダーンタを学ぶことで、その無意識を、イーシュワラの知識を借りて、意識的にできる可能性がある。勉強を進めていく

          Healthy Response to both favorable and unfavorable situation好ましい状況と苦手な状況、両方への健全な対応

          Bringing up achild 子育て

          ヴェーダーンタ勉強会。 ◆傲慢さと自己尊厳傲慢さがない=自己尊厳が無い ということではない。 「わたしはダメだ、ちっぽけだ」という考えによる抑圧から、傲慢になることがある。抑圧からの自由が、自己尊厳である。 誰しも、肉体的・能力的・空間的な制限はある。それは優劣ではなく、単に違うだけ。その客観的な観方を知っているだけでも、なにかと比較で成り立つ世の中では支えになるのでは。 ◆所有について所有という観念が、自分を制限している。所有という感覚ではなく、「すべてがイーシュワラ」

          Bringing up achild 子育て

          Absence of ownership 所有感覚がないこと

          今月のヴェーダーンタ勉強会。 ◆ヴァイラーッギアム「それをそれとしてありのままに観ること」対象物・人そのものが持っていない価値を、自分で上乗せしてしまうことがある。約束されてるわけではないから、失望や不幸を感じてしまう。モノのあるがままを知らずにそこにない価値を見ることを、アッデャーサという。私たちは、自分の記憶や知識・価値観といったプリズムを通して、世界を観ている。個の主観的な観方に、客観性を持たせていく必要がある。 ◆アハンカーラ「傲慢さ」「劣っているという意識」私た

          Absence of ownership 所有感覚がないこと

          Procrastination & dispassion 先延ばしと執着を手放す

          今月のヴェーダーンタ勉強会。 ◆嫉妬や嫌悪感を手放す嫌悪感や嫉妬が、内側の汚れになる。それらを溜め込むことで辛くなってしまう。プラティ・パクシャ・バーバナは、仏教徒の間ではよく知られる、嫉妬を祝福に変換すること。 嫉妬とは、相手が自分に無いものを持っていたり、自分に出来ないことを為していることに対して生まれる。つまり、相手の「それ」に対して、自分が価値を見出している。相手にそれがもたらされていることを、祝福する。この祝福を、バーバナという。私が嫉妬するもの=価値があるものが

          Procrastination & dispassion 先延ばしと執着を手放す

          Inner and outer cleanliness Saucham 内側と外側の清潔さ、シャウチャム

          ◆The volue of satyam 正直であることの価値 正直に話す(サッテャム)だけでは十分ではない。「正直」の第一段階は、話の内容と行いを一致させること。話の内容と思考が合致しているか。さらに、思考と事実が合っているか。 思考と事実との確認は、聖典の知識を自分なりに分析して話してみること。ディスカッションすることで、自分の理解のずれを発見すること。  言葉だけでなく、考えや振る舞い方すべてに気が配られてなければならない。「清潔」=シャウチャムが、より良い理解を与える

          Inner and outer cleanliness Saucham 内側と外側の清潔さ、シャウチャム

          The volue of satyam 正直であることの価値

          ◆今回のテーマは、話すことの鍛錬今月のヴェーダーンタ勉強会。 正直に話す(サッテャム)だけでは十分ではない。話の内容と思考が合致しているか。さらに、思考と事実が合っているか。 思考と事実との確認は、聖典の知識を自分なりに分析して話してみること。ディスカッションすることで、自分の理解のずれを発見すること。 ◆謙虚さという価値(ヴィナヤ)と思いやり「私の身体も、何かをする機会も、与えられたもの」という理解があれば、謙虚さが生まれる。自分がしたこと・しなかったこと、されたこと・さ

          The volue of satyam 正直であることの価値

          タットヴァボーダ アートマンとは

          アートマン(自分自身)とは◆アートマン(自分自身とは何でしょう) 唯一なにも頼らずに自立して存在するのがアートマン。それがサッテャ(真実)であり、それ以外はミッテャー(自立して存在していないもの)。 考えは意識に頼って現れているからミッテャー。 この世界はどれくらいミッテャー(自立して存在しないもの)なのか?=自分自身以外はすべてミッテャーである。私自身に頼って存在する。 私たちの混乱は、「存在しないものを、間違えて”在る”としている」勘違いから生まれている。たとえば、ポ

          タットヴァボーダ アートマンとは

          タットヴァボーダ 「私」とはいったい何なのか

          「私」とはいったい何なのか「私とはいったい何なのか」→「私とは”全体”である」 という本質を、私たちは無知で見えなくなっている。だから突拍子もないとも思うし訝しく感じる。それを知識で「見える」ように明らかにするのが聖典。ヴェーダ(Veda)とは、紀元前1000年頃から紀元前500年頃にかけてインドで編纂された。「ヴェーダ」は「知識」の意。前半は行いによって得られる結果について。「ヴェーダの最後」であるヴェーダーンタは、行いで得られないもの、つまり、知識で叶うこと=モークシャに

          タットヴァボーダ 「私」とはいったい何なのか

          考え・感情 と 私自身

          誰かを比較して自分は出来てない・足りてないと感じる。資格をとらなきゃ、家庭をもたなきゃ、稼がなくちゃ、●〇をしてこうならないと。。 「何かを得れば、心が平安になる」と考えがちで何かを手に入れようとする。新しいもので、自分を、考えを美しく飾ろうとする。気づかぬうちに、思考がどんどん浮かんで混み入って、レンガが重なるかのように高い壁が築かれてしまう。それが当たり前になってしまっている。さらに、思考や感情と、自分が一体化してしまう。 考えと私の間には、本来スペースがあって別物なの

          考え・感情 と 私自身

          Accomodation 許容する力

          ◆思いやりの発見 ヴィナヤ(「謙虚」という価値)。 「足りない」「もっともっと」という欲する意識でなく、漠然としてても「私の身体も、何かをする機会も、与えられたもの」という理解があれば、謙虚さが生まれる。だから、イーシュワラへの理解は、謙虚さとそこから生まれる思いやりに繋がる。=人間としての成長。イーシュワラを通して、世界を、物事を、客観的に観る。 ◆だれしもが罪悪感を持っている 秩序のなかで「そうせざるを得なかった」という理解が、自分にも相手にも思いやりを生む。自分の

          Accomodation 許容する力

          ジャパ瞑想② 思考と静寂の本質

          瞑想、特にジャパ瞑想について。端的には、短い言葉を繰り返す方法。ただ、「繰り返す」意味と目的を理解することが必要で、それを学ぶ機会をいただいた。無自覚に絶えず溢れ出る思考に対して、自分が「そうなってる」と気づく、そして思考の手綱を持つ手段であるということ。 ◆思考のはじまり思考と私は同化してしまっていて、始まりを探せない状態になっている。 両親からもその両親からも受け継がれていて、始まりを探すことにはあまり意味がない。「私という個人は、どこから始まったのか?」の解も同じく、

          ジャパ瞑想② 思考と静寂の本質