Inner and outer cleanliness Saucham 内側と外側の清潔さ、シャウチャム
◆The volue of satyam 正直であることの価値
正直に話す(サッテャム)だけでは十分ではない。「正直」の第一段階は、話の内容と行いを一致させること。話の内容と思考が合致しているか。さらに、思考と事実が合っているか。
思考と事実との確認は、聖典の知識を自分なりに分析して話してみること。ディスカッションすることで、自分の理解のずれを発見すること。
言葉だけでなく、考えや振る舞い方すべてに気が配られてなければならない。「清潔」=シャウチャムが、より良い理解を与える。
◆内側と外側の清潔さ、シャウチャム
ダルマ(秩序)に沿った生き方が、イーシュワラとの調和であり、それが自己尊厳になる。ダルマから派生した様々な価値のなかに、シャウチャム(清潔さ)がある。外側の清潔さをバーヒャ・シャウチャム、内側のをアンタラ・シャウチャムという。
外側については、衛生学的な清潔さと宗教的なものとがある。特にコロナ時代には、衛生面の清潔さについての知識・作法が社会的に徹底された。衛生学・細菌学の進化につれて、「外側の清潔さ」=何が清潔かという知識は変化してきた。
一方、宗教的な清潔さは、水が関与すればなんでも「清潔」と定義される。
極論で言うと、どう見ても衛生学的にはアウトであろうガンジス川での沐浴は、宗教的にみれば「清潔」である。インドでの「清潔さ」は大概にして、宗教学>衛生学。しかしながらヴェーダとしてはシャウチャムには、宗教的な清潔さだけではなく、衛生学上の知識・手段も含む。
◆内側のシャウチャムは、学びの準備として必要
外側(宗教的にも衛生学的にも)と内側、両方のシャウチャムが揃うことが、学びの準備として必須である。内側の清潔さとは何か。内側=心・感情・思考。
私たちが扱うものはなんでも、使うことで汚れて不純になる。食器・衣服・車etc.は、使ったら汚れるので洗う。自分の身体も洗う。同様に、「考えを使う」ことで、考え=人の内面も汚れるし、傷もつく。嫉妬や嫌悪、小さな小さなチリツモが、内側の汚れとして沈着する。それを落とすには、もう一度純粋にするには? 考えの清潔さとは?水は助けにならない。石鹸も届かない。
◆自分の内側を清潔に保つには
嫌悪感や嫉妬が、内側の汚れになる。それは学びの妨げになる。それを落とすためのひとつは、祈り。祈りは、内側の浄化をするもの。
もうひとつは、プラティ・パクシャ・バーバナ。仏教徒の間ではよく知られる、嫉妬を祝福に変換すること。嫉妬とは、相手が自分に無いものを持っていたり、自分に出来ないことを為している ことで生まれる。つまり、相手の「それ」に対して、自分が価値を見出している。相手にそれがもたらされていることを、祝福する。この祝福を、バーバナという。
私が嫉妬するもの=価値があるものが相手に授けられたことに、感謝する。
その想い方に換えることで、嫉妬を中和する。このように、反対のことを持ち込むことが、プラティ・パクシャ。嫉妬も嫌悪感も、反対にバーバナに変換して、愛・慈しむ心にする。
・・・え。無理じゃない??却って辛くなっちゃいそうじゃない??
と勉強会で。それはそうで、一足飛びには難しい。「まじほんとムリ・・」という相手に対しては、自分がもっと傷ついたり、逆効果になる場合もありそう。まずは、距離と時間を置くのが良いかも。自分の安全・安定を確保したうえで、自分の中の汚れや閊えを手放していく。
◆外側とのかかわりによって、必ず内側の汚れは溜まる
汚れを手放すこと、嫉妬や嫌悪を中和することが必要。その助けになるのが、イーシュワラへの理解。直接的に「なんで!!」とならずに、「私にはこう見える」とか、「相手にもこういう背景がある」と思い遣るワンクッションが入れられるだけでも。「私が実現したことなのに」とか「私のものなのに」とか、所有を自分にしてしまうと辛くなる。持っている(と思っている)ものも、行いの結果も、与えられているもの。相手も同じく。その変換があれば、同じ物事でも受け取り方が変えられる。ほんとに悔しいときや苦しいときほど難しいけど。