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ジャパ瞑想② 思考と静寂の本質

瞑想、特にジャパ瞑想について。端的には、短い言葉を繰り返す方法。ただ、「繰り返す」意味と目的を理解することが必要で、それを学ぶ機会をいただいた。無自覚に絶えず溢れ出る思考に対して、自分が「そうなってる」と気づく、そして思考の手綱を持つ手段であるということ。

◆思考のはじまり

思考と私は同化してしまっていて、始まりを探せない状態になっている。
両親からもその両親からも受け継がれていて、始まりを探すことにはあまり意味がない。「私という個人は、どこから始まったのか?」の解も同じく、原因と結果のサイクルになってるから知りようがない。

ジャパ瞑想中でも、考えがポップアップしてきたら、そっちに引っ張られてしまう。「ポップアップしてきた考えや感情は、ウェルカムしなさい」
分析すれば何かしらわずかな隙間があり、考えと自分の区別  を感じ取る練習でもある。「習性がある」ということは「習性に気づけている」ということでもある。自分自身と考えの識別があれば、考えが移り変わっても、落ち着いていられる。瞑想と聖典の勉強の両方があって、理解が深められる。

◆考えを占有するもの

ポップアップしてくる考えと考えとのあいだの隙間が「平安」が本質。
本来は平安が通常なのに、いそがしくてそれができなくなってしまってるから、ジャパで意図的に思考をつくる。選択した思考を並べていくことで、そのあいだにある静寂を再発見する。

◆ダンサーのような考え

パンチャダシという聖典に出てくる内容。
暗転した舞台にスポットライトがあたっている。光が当たってダンサー(考えや感情)が明らかになる。ダンサーが居なくなっても、光はステージを照らし続けている。光そのものは、在るだけで何かを明かすもの。「明かす」は、動機や行いではない。
ダンサー(考え)が居ても居なくても、光が当たり続けてベースとなる舞台(静寂)は存在する。舞台に移り変わるダンサーを、ずっと見てる観客が「気づき続けている人」としての私。

◆思考と静寂の本質

何も現れていない静寂が、私。
思考の無い状態をつくるのが目的ではなく、思考の本質と静寂の理解して認識するのが目的。ジャパ瞑想は、思考をなくす状態ではなく、マントラという意図的な思考を選択することで、ポップアップしてくる意図しない思考を選択しないようにすること。選択した思考と思考との、ほんのわずかな隙間にある静寂が、自分自身の本質。通常はそれが認識できてないから、思考のほうを「思考=私」だと勘違いしてしまっている。

◆私が静寂

聖典を使わないでジャパ瞑想をつかっても、モークシャに繋がらない。

◆ジャパは、思考の芽を摘み取るのを助ける

思考と思考との隙間に気づくことで、ポップアップしてくる無自覚の思考を芽のうちに摘み取ることが出来る。
ただし、「ダメだ」とすぐ摘み取るのではなく、まずは受け入れる。思考があったとしても、それに自覚的であって、それに巻き込まれていなければいい。無自覚だと、考えと自分を同化させてしまっている。風に吹かれて揺らぐほうが自分ではなく、風を含めた全体のほう、揺らがないほうが自分。

◆瞑想に適した時間と習慣

マインドがサットヴァ(純質)な時間帯に行うとよい(本来は早朝だけど、自分が落ち着いた時間に続けられることから)。

◆私たちの思考

次から次へと切れ目なくポップアップする思考。チャンティングとチャンティングの隙間に気づくための練習。その隙間=静寂が、私の本質。
隙間に敢えて注目しなくていい。チャンティングに没頭できていれば、私はずっと変わる思考を見ている。思考は変わっているけど、見ている私は変わっていない。私によって、思考は明らかにされている。

考えても仕方ないことを繰り返し考えてしまう・ネガティブな考えに引っ張られてしまうなど。。
ラジャスな思考に占領されてしまってることにまず気づく、そしてサットヴァの質に引き戻す。 

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