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The meaning of Karma カルマの意味

今月のヴェーダーンタ勉強会。今まで学んできたカルマの話をふたたび。

◆小さなことでも大切な祈りになる

個々の主観で「些細な事」と思ったとしても、相手にとっては「大切なこと」であったり。大小は判断できるものではない。
自分が出来ることは、行いの選択である。行いの結果に関しては、自分の選択ができない・責任を負わない。イーシュワラにお任せする。

◆カルマ=経済成長の遅れ とする誤解

「インド人(ヒンドゥーダルマ)はカルマを信じているから、インド経済は遅れてる」「努力してもしなくても変わらないと思ってるから、発展しないんだ」と誤解されることが多い。その批判は、カルマ=定めであって個人の努力と関係ないこと と取り違えているから。ダルマ・カルマの理解は、秩序を理解し自分のすべきことをする、”自分のお世話ができる”こと。

※サンスクリット語に「宗教」という言葉が無いので、ヒンドゥー教徒ではなくヒンドゥーダルマと表現されている。

あますところなく現れているすべてがイーシュワラ(物体や現象だけでなく感情などもすべて)。イーシュワラが法則の姿として現れてるのが、ダルマ(秩序)。それが、ヒンドゥーダルマにとってもっとも重要な指針になっている。ヒンドゥーのみならず、仏教徒もカルマを信じている。日本人にも親和性がある。カルマは歴史的に、普遍的な価値がある。
つまり、経済的な成長要因をカルマとするのは根拠がない。インド人は発展や進歩を否定していない。稼げる手段で生計をたて、誠実に人生を生きている。第三者から見て「ちっぽけな」仕事も、その人は「与えられた仕事」、つまりダルマとして懸命に務めている。(耳かきする仕事もある!)

◆インドの歴史的な事実

何世紀も外国の支配下にあり、経済的に栄えることができなかった。製造業は許可されておらず、「インド製」は存在しなかった。唯一の例外は、織物産業。その後、物流のための鉄鋼・鉄道業がようやく許可される。 cf.ガンジー
こうした歴史的な背景が経済的な要因であるものの、依然としてカルマを原因とする誹謗中傷がある。

◆ダルマの、義務という側面

カルマは、過去の行いによって今世でもたらされているもの。ただ、かっちり定まったものではなく、ダルマ(秩序)に沿った行為を選択することで中和することができる。努力や行為でどうにもならないことも沢山あるけど、受け取り方を変える・受け取り方の準備を学ぶことはできる。あまりにも受け入れられない不条理もある。たくさんの消失と失望に見舞われるけど、それ自身をショックアブソーバーにする。生きている限りは、そのショックを抱え、受け入れ受け入れられないことの繰り返し。

◆ダブルスタンダードがない

カルマが唯一のスタンダードであり、自己尊厳につながる。
本音と建て前、自分の中に矛盾をかかえることは、自己尊厳を損なう。
「良いこと」は、だれにとっても良いことであり、ブレが無い。法的な処罰・その国の法律に依らず、ダルマとして「良い」「悪い」が存在する。
インド人は、どんな時代・どの国でも普遍的なダルマを信じている。国や宗教ごとの価値観に依らない、普遍の価値に敬意を払う。戦争や凄惨な事件も、この欠如に一因がある。ガンジーが強調したのはこのこと。

◆千春も繰り返し繰り返し、”道徳”を という

【ラジオでの発言】
「いつの間にか、日本が誇れる”治安の良さ”が、ずいぶん低下してると思う。俺はやっぱり危機感を感じる」

「現代の日本は、たくさん問題があるとはいえ、戦争をしていなくて、最低限の衣食住が成立してる人が多数いる。「平和」は当たり前では無くて、先代・先々代が人権や平和のためにがんばってきたから。「今」という点だけ「区別」して観ていても、少子化・格差・幸福度・道徳といった問題は解決しない」

「自分たちの国の行く末、どうなっていくんだろーかと。当時考えられなかったことが今は出来る。でもそれ、どこまでやっていいんだろうかとか。次の世代のために、決めることを決める。法律じゃなくて道徳としての、善と悪。そしてそれを伝えていかなくちゃいけない」

「多様化に反対はしないけど、日本人の心・道徳・習わしまで無視して多様化してほしいとは思わない」

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自分の行いは自分に還る。自分を「自分に責任ある人」とする。
責任ある人たらしめるのは、カルマである。私がすべきこととして選び取った行いの結果は、今世の、来世の、私のカルマになる。
「何かが足りない、何かを得なければ」という思考は、本当に目の前に存在する「すべきこと」が理解できてない焦りからかもしれない。
何者かになりたい自分。でも何か得たもので判断される必要もないし、「最初からすべて在る」という理解を丁寧に丁寧に繰り返し説いている。

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