アイデンティティと愛
こんにちは、青凪です
皆さんは自分を何によって認識していますでしょうか
自分って誰だろうと問うたことはありますか?
年齢、性別、国籍、血統、思想、価値観、言論、行動
自分を自分たらしめる決定的な定義とはなんでしょうか
私は高校生の頃、ジェフフォスターという方の本をよく読んでいました
彼は自身の経験から生きることの極意のようなものをとてもシンプルに詩のように語る人でした
ここではあえて彼の主義主張を定義したり、系統化したりしませんが、認識論に属した思想を展開しているととだけお伝えしようかなと思います
と言っても思想とはまた違うものなのですが
存在とは何かに迫る事を施す活動をされています
でも少しわかってもらえるようにここで小さなエクササイズをしたいと思います
今いる環境の中で、なんでもいいので耳をすませてみてください
風の音、雑音、蝉の鳴き声、人の話声、音楽
色々聞こえてくると思います
これは当たり前ですよね
私たちには耳があって聴覚があるから音が聞こえると思います
さて、この音を聞くと言う動作ですけど、実際に耳を澄ましてみると何がわかるでしょうか
そうです、音がそこに存在するということです
私たちは言葉として音を聞くという動詞を使いますが、実は私たちは音を聞いているのではなくそこにある音を認識しているだけなのです
音というのは呼吸と同じように自動的に私たちの意志とは関係なく出現します
どうでしょう、この違いがわかるでしょうか
少し難しいかも知れませんが、私たちは音を聞こうとして聞いてる訳ではなく、音が勝手に現れているのを認識しているのです
私が聞いているとなる時は音が出現した後に「私が聞いている」と思考した時のみになります
ではこの出現する音とそれを認識する「私」を区別するものはなんでしょうか
この問いに答えるためには他の要素も見てみないといけません
例えば、私たちの体は7割ほど水でできていると言われています
では私たちは水なのでしょうか
飲む水と体の水の境界線はどこなのでしょうか
水と「私」の境界線は?
では、先述の呼吸はどうでしょう
私たちは空気無くして5分も持たず死にます
存在に必要な空気と「私」の境界線はどこなのでしょうか
もっと言えば、その中で必要な酸素を供給する植物と「私」の境界線は?
存続に必要と言えば食べ物ですが、植物性でも動物性でも私たちは死した命を頂きます
その命が身体の栄養素となり原動力になります
その命と「私」の境界線は?
実は沢山のものに依存し、外部を認識することで存在している私たちだということがこれで分かると思います
これらの生きるのに不可欠なものたちと確固とした「私」と呼べる存在の境界線はどこに置かれるのでしょうか
全ての中心である「私」はどこにいるのでしょうか
ジェフフォスターはこの境界線は幻で、実は存在しないと言います
頭の中で私たちが作り出した虚構で、「私」は実存しないと言います
音を聞く時、音を聞いている私は頭の中で作られており、実体験はただ音がそこにあるのを認識しているだけであると気がつく時
私たちはこの虚構に多少気がつくわけです
そのように私たちは生きている間に自分自身にアイデンティティを、「私」という虚構を継ぎ足しているのです
年齢、性別、国籍、血統、趣味趣向、性格、価値観…と
しかし、実はこの確固とした様に見える「私」の境界線は外界とのつながりの中で曖昧であることに気がつくのです
空気がなければ私たちは生きていけない
ほとんど水で構成されている私たちの体
他の命からいただいている自分の命
私たちが存在するためには他者がいなければならないのです
シンプルに生きるためには外界とつながり続けなければならない
それが「私」を破壊するのです
現代社会では分断という言葉が顕著になっていると思います
政治でも社会でも教室でもどこにでも
この分断が問題を起こしているように思います
国と国に分かれ争い合う
右翼と左翼に分かれ争い合う
男性と女性に分かれ争い合う
若者と大人に分かれ争い合う
白人と黒人に分かれ争い合う
あの人とこの人に分かれて争い合う
そして
必ずいじめっ子といじめられっ子がいます
この分断が存在しないとしたら、世の中はどうなるでしょうか
むしろ、自分が生きるために他者が必要不可欠であり、そもそもこの「自分」と呼べる存在の一部は他者より構成されていると気がつく世界はどんな世界なのでしょうか
私はこれを一言で「愛」なのではないかと思います
自分というアイデンティティが希薄化し、他者の必要性と親和性を理解することがむしろ自身への更なる理解へと繋がるというパラドックスが、「愛」であると私は定義しました
仏教で言われる無我の境地というのは、この事実への理解ではないかと私は思います
ですので、再度皆さんにお聞きしようと思います
皆さんは自分を何によって認識していますでしょうか
自分って誰だろうと問うたことはありますか?
これを読んでいる「私」は一体なんなのでしょうか