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雑感103:『野生の思考』 2016年12月 (100分 de 名著)

「野生の思考」は日本に生きている

フランスの人類学者クロード・レヴィストロースが1962年に上梓した『野生の思考』。北米大陸先住民の神話や儀礼などから人類の思考に普遍的な「構造」を発見し、20世紀の思想史を大きく転換する「構造主義」の先駆けとなった。この古典を通して、現代日本社会やそこに生きる我々の心性を見つめなおす。

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レヴィストロースの『野生の思考』を100分で理解しようだなんてなんとも虫のいい話ですが、原作を読み切る自信も度胸も知能もない貧乏性の私は、600円で買えるムック本に走ったわけです。

素人の私が何となく分かった気になるには十分な本でした。

冒頭のサルトルの説明が一見しっくりくる。

いわゆる「未開社会」は歴史の「全体化作用」に組み込まれておらず、そこには「分析的理性」しかなく「弁証法的理性」はない。

「未開社会」は「実践的惰性態」であり、同じことの繰り返しであり、前に進むことはない。

これに対してレヴィストロースは、トーテミズムも先住民の神話も全ては、例えば「雨季と乾季」、「天と地」、「生と死」のような対立的概念の循環、それにより起こる矛盾を乗り越えようとする理性により生み出されたもので、それは「分析的理性」ではなく、まさに「弁証法的理性」であると。

資本主義経済の権化のようなクリスマス商戦も、もともとは太陽の力が弱まり、闇(死者)の力が強まる季節に、死者の機嫌を取るために「贈与」が生まれたことが根源であると。現代社会のクリスマスも、元を辿ると、古い宗教の弁証法的理性と地続きになっている。

・・・

正しく理解できているか、大変不安ではある。(繰り返しになるが、100分で『野生の思考』を理解しようとするのは虫が良すぎる。)

しかし、こんなことが書いてあると、我々と先住民の違いは何かを考えるきっかけになる。

そもそもは皆同じ人間で、地理的な都合とか、何かの拍子に科学と切り離された原住民。しかし脳みそは同じはずである。

科学的に進歩した側が、その科学の恩恵でたまたま多くの情報に触れる機会を得ただけで(それ故に、その情報を使って新たに事物を考え、分析する機会に恵まれただけで)、中身は同じである。

むしろ何か特定の分野においては、我々よりもよっぽど先住民が研ぎ澄まされ、分析する機会に恵まれ、構造的に物事を捉えているようにさえ思う。(それがトーテムポールに表出している、ということか!?)

むかし何かの別の雑感で書きましたが、中国では卓球の変化球の名前(種類)が日本よりすごいいっぱいあるみたいな話があった気がしますが、ある意味で、原住民と我々の差異は、中国と日本の卓球の変化球の種類の差異と同じようなもので、その文化ないし文化圏にいる人間が、五感で得た情報のうちのどこに重み付けをするか/しないかという点では同じなんではないだろうか、みたいなことを思いました。

今回、100分で名著シリーズを初めて読みましたが、以上のようなことを妄想できたという点で、個人的には大満足でした。

私が死ぬまでに『野生の思考』の原本を読む日は訪れるのでしょうか。

「ブリコラージュ」
あり合わせの道具・材料を用いて、自分の手でものを作る。

・・・そこには科学的な真値や絶対はなく、常に「ゆらぎ」があり「偶有性」がある。なんとも魅力的な世界のように思いますし、現代社会における「イノベーション」は、先住民の「ブリコラージュ」と隣り合わせのように思います。

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