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【歴史の謎解き・歴史のあれこれ】                                         ~真の日本の歴史~                                                                                                                                                                 「革命」の中の義経 6

今回は壇ノ浦の戦いを書いていきたいと思います。

源氏方軍監である梶原景時との「先陣論争」後、義経は彦島で孤立している平家方を撃滅すべく約800艘で出撃します。
先陣は源氏方海上部隊の総大将である義経自身です。
対する平家方は総帥平宗盛の弟平知盛を指揮官として約500艘で彦島を出撃します。
平家物語では、源氏方3000艘、平家方1000艘であったとされています。

源氏方、つまり、後鳥羽天皇の年号で元暦二年、平家方、つまり、安徳天皇の年号で寿永四年、西暦1185年の3月24日、関門海峡にある壇ノ浦で両水軍が激突、ついに源平最終戦が開戦しました。

記録によると戦いの序盤は平家方優勢であったらしく、そのうち義経率いる源氏方が盛り返したとのことですが、この源氏方逆転の理由については、初めは潮の流れが平家方に有利であったが途中から源氏方に有利な追い潮に変わったためであるとか、不利を悟った義経が平家方の水手、梶取(漕ぎ手)を射るよう命じたためであるとか、平家方からの寝返りがあったためであるとか言われて来ましたが、源氏方逆転の真の決め手となったのは、義経の兄の一人蒲冠者源範頼率いる源氏方陸上部隊の存在であったのではないかと思います。
範頼率いる源氏方陸上部隊にも名だたる武将が揃っており、九州に布陣して平家の退路を遮断すると同時に岸から海上の平家方に遠矢を射かけます。

「源範頼像」 横浜市金沢区 太寧寺所蔵

潮の流れが源氏方にとって追い潮であろうと平家方にとって追い潮であろうと源氏方の船団も平家方の船団も同じ潮の流れに乗って同時に同じように海上を移動している以上、潮の流れ自体が戦闘の状況に大きく影響を与えるとは考えにくく、また、もしかしたら平家方武将の寝返りということも実際に起こったのかもしれませんが、そうしたこと以上に、弓合戦の結果が勝敗の大勢を決めたのではないかと思います。

近年の研究では、壇ノ浦の戦いの戦況について、

・序盤、平家方が矢による猛攻をしかけるが、平家方が射尽すと義経率いる源氏方海上部隊からの矢による反撃に加え、範頼率いる九州の陸上部隊も遠矢を射かけて源氏方海上部隊を援護

・そのうち、平家方の防御装備の貧弱な水手・梶取たちから犠牲となっていって、平家方の船は身動きが取れなくなり、平家方不利と見た諸将の間では源氏方への投降ないし寝返りが相次いだ

とされており、私もそう思います。
範頼の役割も非常に大きかったのです。
このようにして源平合戦の最終章である壇ノ浦の戦いの大勢が決しました。

そして、壇ノ浦の戦いの大勢が決すると、「三種の神器の奪還」という残る大きな命題が最前線指揮官である義経の肩にのしかかってきます。
戦場の各地では平家方諸将の入水による自決が始まっていました。
その中で、義経は三種の神器を奪還し、安徳天皇の保護もしなければならなかったでしょう。
ちなみに義経の「八艘飛び」があったのは戦いの大勢が決したこのころとされていますが、義経はこの海戦においても最前線で戦っていますので、現実に「それらしいこと」があったとしてもおかしくはないかもしれません。

しかし、結局、安徳天皇は平家一門の武将や女性たちと共に入水し、この時、三種の神器のうち神剣「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」が失われたとされます。
そして平家方総帥である宗盛とその嫡子清宗は自決しきれず、その他数人の平家方の武将や女性と共に捕虜となっています。

不遇の皇子以仁王と源三位頼政の挙兵から始まり、5年にもおよんだ源平合戦、つまり、治承寿永の乱は、こうして幕を閉じたのです。

前章までで書いて来たとおり、頼朝が成し遂げた「鎌倉幕府」の樹立は日本史上初の「階級革命」でした。
武家階級による「階級革命」でしたが、それにより日本史上初めて全国の実質的な支配権が京都朝廷から外れたわけです。
つまり、源平合戦は結果的に「革命戦争」になったといえます。
そして、その戦場における立役者こそが天才武将源義経でした。

「源義経像」 下関市みもすそ川公園

中国の歴史では、例えば、チンギス・ハーン(氏族名はボルジギン氏)を始祖とする元朝から朱氏を帝室とする明朝へ、そして、朱氏の明朝から愛新覚羅氏を帝室とする清朝へと王朝が交代していくのですが、こうした別の氏族への王朝交代のことを「易姓革命」と言い、鎌倉幕府の成立は「階級革命」であると同時に実質的には「易姓革命」の側面も持っていたといえます。

ここで少し余談ですが、義経は実は衣川の戦いで生き延び、北海道から大陸に渡ってチンギス・ハーンになったという「伝説」がありますが、それはさすがに事実ではありません。
ただ、義経が衣川の戦いで生き延び、北方に逃れた可能性は0ではないのではないかと思います。
その場合、奥州藤原氏の東北全土に渡る包囲網を潜り抜けて北方に逃れることは非常に困難だったでしょうから、むしろ当の奥州藤原氏こそが義経を逃したのではないかと思います。

この壇ノ浦の戦いの後、義経は兄頼朝と対立し、鎌倉方から追討を受けることになります。
そして、義経は故郷である奥州藤原氏の下に逃れますが、鎌倉方からの圧力に屈した奥州藤原氏により義経は討たれ、やがてその奥州藤原氏も鎌倉方から追討を受けることになります。

これらのことは次回以降に書いていきたいと思います。

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