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【歴史の謎解き・歴史のあれこれ】                                         ~真の日本の歴史~                                                                                                                                                                 「革命」の中の義経 5

今回はまず少し「種明かし」をしてから、つまり、今後の記事で展開していく「真の日本の歴史」の「種明かし」を少し書いてから、源平合戦の最終章である壇ノ浦の戦いの始まりを書いていきたいと思います。

私が理由があって知っている真の日本の歴史の範囲は、メインは平安時代末期から幕末・明治維新までの「武家の時代」ですが、実は前回までの記事に書いて来たことは今後の記事で展開していく「真の日本の歴史」の大前提となることなのです。
それがなぜ「大前提」なのかは今後の記事で徐々に明らかになっていきますが、それはとても壮大なものです。
その壮大な「真の日本の歴史」は「ルーツ」という形で現代のほとんどの日本人に関わっていて、逆にそういう形で関わっていない日本人はほとんどいないといえます。

前回、屋島の戦いに関連して佐藤一族や那須一族のことも書きましたが、まず、そのうちの今回の「種明かし」に関係するパートを再掲します。

佐藤一族について:
「この継信と弟の佐藤四郎兵衛尉忠信の属する佐藤一族は全国のほとんどの佐藤さんのルーツであり、平将門を討った鎮守府将軍藤原秀郷の子孫であることは有名です。
後世、同じく秀郷の子孫であり奥州藤原氏の三代目である藤原秀衡の名字を佐藤とし、「佐藤秀衡」と呼ぶ時代もあったくらいです。
このことは秀衡が継信忠信兄弟の姻族(婚姻関係による親族)であったこととも関係あります。
この継信忠信兄弟は、秀衡の命により平泉から義経に従って来た正に義経の忠臣であり、佐藤一族の代表的な武将として知られています。」

那須一族について:
「那須氏は平安時代中期の摂政・太政大臣で藤原摂関家の全盛期を築いた藤原道長の子孫とされ、下野国(栃木県)那須郡を領していた武家です。
与一はその十一男として生まれたとされ、この時、義経の配下として従軍していました。
那須氏が本当に道長の子孫であるかどうかは別として、那須氏を含む下野国の武家のほとんどが藤原姓であり、これはかつて将門を討った秀郷がその祖父以来三代に渡って下野国に住み、かつ、将門追討の恩賞として下野守・武蔵守および鎮守府将軍に任じられ、小山氏、佐野氏、藤姓足利氏などの秀郷の子孫、あるいは、少なくとも何らかの形で秀郷の子孫としての系譜を引き継ぐ武家たちが下野国に土着し、数百年に渡って割拠して来たことと関係があります。
将門を討って「将軍」に任じられた秀郷の武名の大きさから、下野国は秀郷の子孫、あるいは、秀郷の子孫としての系譜を引き継ぐ武家たちの勢力圏であったといえますが、那須氏もその下野国に領地を持つ武家である以上、やはり何らかの形で藤原姓とし得る家系であったと思われ、これは関白藤原道兼(道長の兄)の子孫を称する宇都宮氏にも同じことがいえます。
もちろんその系譜が正しい可能性もありますが、家系は時として誇張されます。
その場合、同じ藤原姓でもより位の高い人物の子孫であるとする何かしらの都合や事情があったことは確かですし、しかし、例えば先祖がそうした人物の養子や猶子(養子よりも緩やかな関係だが、養子とほぼ同義)であった可能性も含めて、何の根拠もなくそのように位の高い人物の子孫とはしないのもまた確かです。
また、与一は「余一」、つまり、「あまり一」という意味で、与一は太郎資隆の十一男として生まれたとされているのですが、医療技術の乏しい時代に、実際に成人した実の子が男子だけでも十一人もいたということは考えにくく、十一人の男子のうちの何人かは、あるいは、多くは、例えば実際には孫であったり甥であったり、姻族を含む親族の子であったり、家臣や関係のある有力者の子であったと思われます。」

では、少し真の日本の歴史の「種明かし」をすると、
義経の配下として那須与一と共に屋島の戦いにも参加していた那須十郎為隆は、実は義経の忠臣の一人で歌舞伎の題材にもなっている佐藤四郎兵衛尉忠信と同一人物です。

つまり、

那須千本十郎為隆 = 佐藤四郎兵衛尉忠信

なのです。

ちなみに忠信を題材にした有名な歌舞伎は「義経千本桜」というタイトルですが、このタイトルの「千本」とは偶然なのでしょうかね。
このあたりは明確なことがいえませんが、「偶然」ではない気がします。

本朝英雄鏡 佐藤四郎兵衛忠信(歌川国芳画)

為隆は源平合戦後、義経の命に背いたので信濃国に潜伏し、同地で戸福寺十郎を名乗り、罪を許されると本国である下野国に復帰し、これまでの戦功により同国芳賀郡茂木庄(茂木郡)千本の地を賜り、以降、千本十郎を名乗ったとされています。
一方、忠信は、源平合戦後、頼朝との対立により義経が都落ちにする道中、宇治辺りで義経の下を離れ、京都に潜伏していたところを密告され、鎌倉方の襲撃を受けて自害したとされていますが、実はここで忠信は自害しておらず生きています。

義経にとっては秀衡の子供たちや継信忠信兄弟は共に育った兄弟同然であり、幼馴染です。
そして、義経は平泉から出発する際に育ての親である藤原秀衡から秀衡の一族である継信忠信兄弟を付けてもらい、継信は屋島の戦いで義経の身代わりとなって討死しました。
ここで源平合戦の英雄の一人である継信の弟忠信が生き残らなければ、源平合戦で武名を上げた佐藤一族が浮かばれませんし続きません。
義経にとしては秀衡から預かった忠信までもが追討を受ける身となることは忍び難く、忠信が生き残る道を見つけようとしたと思いますし、忠信も名門佐藤一族のために生き残らなければならなかったのです。

そして、実は鎌倉方もそれを知っていました。
これは後の鎌倉方による奥州藤原氏追討戦である奥州合戦にも繋がる話ですが、頼朝やその姻族である北条氏をはじめとする鎌倉方は内々では忠信が生き残っているのを知っていたのです。
鎌倉殿、つまり、「幕府」というのは日本全国を実質的に支配していた政府ですから、こういった日本全体の「体制」に関わるような、しかも、目立った事柄は隠そうと思ってもはっきりいってバレます。
ですので、鎌倉方は源平合戦の功労者の一人である忠信を別名義で生かし、しかも、武家としての存続も認めていたのです。
この頃にはちゃんと武士道精神というものが成立していて、ここは「武士は相見互い」の精神ですかね。
ただ、義経が頼朝と対立して鎌倉方から追討を受ける身となったため、「義経の忠臣」として名を馳せた忠信は、以降、「佐藤四郎兵衛尉忠信」とは名乗ることができなくなりました。
そのため、忠信は元々持っていた那須一族としての名前「那須十郎為隆」を名乗って生きることにもなるのです。
兄継信が義経の身代わりとなって討死したのは屋島の戦いでの出来事であり、後世から見て「鎌倉方から追討を受けた義経の忠臣佐藤氏」という概念が確実に成立したのはこの屋島の戦いでのタイミングですが、屋島の戦いでは継信の討死後に為隆の名前が登場しており、このタイミングから忠信の名前が「那須十郎為隆」に切り替えられているのだといえ、作られてきた表面に出ている歴史上ではこのタイミングこそが忠信の名前を為隆に切り替えるベストタイミングだったといえるのです。

そして、為隆の子である千本信隆は、まさに忠信の子である佐藤四郎左衛門尉信隆(別名は義忠など)と同一人物なのです。

つまり、

那須千本信隆 = 佐藤四郎左衛門尉信隆

なのです。

上記のとおり、信隆の父は戸福寺十郎として信濃国に潜伏していたこともありますが、信隆はその父から信濃国の領地も受け継いでいます。
そして、実は信隆はもっと別の名前も持っていました。
しかも、複数です。
このことは今後展開していく「真の日本の歴史」の内容にも関わることです。
今回の上記の「種明かし」とその説明は私が理由があって知っている「真の日本の歴史」の本当にわずか、ほんの一部に過ぎないのです。
今後の記事で徐々に「真の日本の歴史」の核心を含む「種明かし」を書いていこうと思いますが、こんな長文を読んでくださっている方々、ごめんなさい。
もう少し先になりますが、今後「真の日本の歴史」の「種明かし」を書く時は有料回とさせて頂きたいと思います^^;
これはお許しください。すみません。
その際、説明の文が長くなるかもしれませんので、「種明かし」の部分については今回と同じように太字で書きます。

義経の奇襲攻撃、継信の討死、与一の弓など歴史に残るイベントが複数あった屋島の戦いに勝利して、源氏方は平家方との最終戦に臨みます。

壇ノ浦の戦いです。

源平最終戦の舞台となった壇ノ浦は関門海峡にあります。
源氏方陸上部隊の総大将は義経の兄の一人蒲冠者源範頼、海上部隊の総大将は源九郎判官、つまり、義経です。
先に平家追討に向かっていた範頼の軍勢は、一時的に全軍崩壊の危機にまで陥りますが、弟義経率いる援軍が進撃する中、食料と軍船の調達に成功し、平家方を破って九州に上陸します。
屋島の戦いに敗れた平家方は瀬戸内海の制海権を失い、西方へと退却しますが、九州に上陸した範頼の軍勢により退路を遮断されます。
このあたり、範頼も頑張ってますし、役割が大きいです。
そして、義経の軍勢が海路で平家方を追い詰め、平家方は本州最南西端の彦島で孤立します。
義経の軍勢、つまり、源氏方の水軍は摂津国を出航した時にはわずか5艘150騎でしたが、この時、義経は彦島の平家方を撃滅すべく約800艘で出撃します。

この出撃の際、総大将である義経と源氏方軍監の梶原平三景時との間で「先陣論争」が起こります。
景時は東国の武士であり頼朝からの信任も厚かったのですが、景時の属する梶原氏も桓武平氏の家系とされています。
その景時は最終戦で先陣を務めることを望みますが、総大将の義経が自ら先陣に立つとしてその景時の先陣希望を突っぱねます。
総大将自ら先陣に立つのは、全軍の士気が落ちている時などに行われる臨時対応であったりしますが、源氏方圧倒的優勢の状況ですので、景時の先陣希望は習慣として普通のことであり、この頃は、まさに「義経しか勝たん」状態でしたので景時だって手柄を立てたいわけですが、源氏方総帥の弟義経自らが先陣に立ちたかったのには理由があったと思われます。
もちろん、義経自身、自分が天才武将であることを知っていたでしょうから、その才能を遺憾なく発揮したかったというのもあったかと思われますが、やはり、平家との最終戦だったのです。
状況から、誰の目から見ても平家との最終戦であることは明らかでした。
頼朝、範頼、義経兄弟にとって平家は、父義朝や兄弟たちや叔父たちを討った仇です。
そして、平家は安徳天皇を擁し、三種の神器を持ち去っていますので、まさに「前政権」そのものなのです。
つまり、源平合戦とは、頼朝兄弟たちにとって仇討ちであると同時に、天下取りの戦いでもあったわけです。
義経の考えとしては、そうした重要な意味合いを持つ最終戦での先陣こそは、東国の武士であるとはいえ桓武平氏の家系である景時ではなく、なんとしてでも清和源氏の武将自らが務めるべきということだったと思われます。
先陣を務めるということは、例えば野球でいうと、先発投手が8回か9回の途中まで投げて、残りをリリーフ投手が投げて試合に勝った時に、あくまでも先発投手が勝利投手になるということに少し似ているでしょうか。
先陣を務めるということは武家社会ではそれほど重要な意味合いを持ち、名誉なことでしたが、義経自らが最終戦での先陣を務めることで、「平家」も属する桓武平氏ではなく、清和源氏自らが仇討ちをして、かつ、天下を取ったという不動の事実を築き、清和源氏が天下人である絶対的な根拠を持つと同時にその強化をしたかったのではないかと思われます。

しかし、この「先陣論争」の結果、義経は景時から恨みを買い、後に景時は義経について頼朝に讒言(虚偽を含む内容を報告すること)します。
景時は頼朝からの信任が厚く、これが後に義経が鎌倉方から追討を受ける原因の一つとなったとされます。
では、仮にも源氏方の総帥である頼朝が平家との最終戦で弟義経自らが先陣を務めることの意味合いを理解していなかったのかというと、理解していなかったわけではないと思われます。
むしろ、類まれなる天才武将である弟義経によって「清和源氏が天下人であることの絶対的な根拠」を持つことができたのであり、頼朝は自分の思想が実現化できることを実感していたと思われます。

その頼朝の思想とは、

1)京都朝廷での位階は決して高くなくても、武家階級は当時既に実力を持っていた

2)そうした全国の武家を取り込んだ武家階級を中核とする全国的な支配体制を実力行使により確立する

3)王権を頼らず、むしろ、京都朝廷からは距離を置き、半ば独立した形で将軍特権による政府を樹立する

4)そうすることで、京都朝廷から全国の実質的な支配権を外し、武家が名実ともに自治権を持ち、全国を実質的に支配下におく

というステップを踏むことで、武家による「階級革命」を成し遂げることでした。
頼朝は天才政治家です。
義経は上記のステップでいうと2)の「実力行使」部分、つまり、源平合戦という「革命戦争」の勝利を実際の戦場で成し遂げたのですが、その義経の突出した活躍は頼朝にとって脅威ともなったのではないかと思われ、景時の義経についての讒言は源平合戦後の頼朝やその他の鎌倉方の武将にとっても「利害」が一致したために認められ、義経は源平合戦の最大功労者であるにもかかわらず「冷遇」を受けることとなり、上記ステップの3)の段階において兄頼朝と対立していくことになります。
そして、この対立の中での義経の行動が「頼朝の思想を理解していない」という根幹的な問題とされてしまい、やがて義経は鎌倉方から追討を受けるに至るのです。
いつの時代も、親子兄弟の関係というのはむしろ難しいですね。

とはいえ、義経が源平合戦という「革命戦争」を勝利に導いた最大の功労者であることに変わりはありません。
その「革命戦争」の最終戦が壇ノ浦の戦いです。

壇ノ浦の戦いの続きは次回に書きたいと思います。

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