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目を閉じて見えたもの

いつも観てきた。人を、その表情を、その動きを、その内側の状態を、目を見開いて観察してきた。観ることは私が人々や世の中を知る、大きな手段だった。映像制作を仕事にしたのは、そういう視覚優位の一つの現れと言える。


でもこの頃、できることならずっと目を閉じていたいと思う回数が増えた。電車の中などでは大抵イヤホンで音楽を聞きながら目を閉じている。目を開けていれば何かしら情報(文字や色、ヴィジュアル)が入ってくるのを、うるさいと感じるようになったからだ。


私は幼い頃からたくさんの情報や選択肢があるのが苦手な子で、どれを選んだらよいのか分からず、プチパニックになっていた。もともと情報処理が苦手なのだろう。大人になった今でも、たくさんの情報に対しては、まず自分の中で一度じっくり整理しないと前に進めなかったりする。


ディレクターになりたての頃、ネタ探しということもあり、新聞を全紙くまなく目を通していたことがあった。気になる記事はネタにならずともこまめにスクラップした。社会人として、仕事人として成長するために、とにかくたくさんの情報を「入れなきゃ!」と思っていた。

その結果はどうだったかといえば、時間ばかりがとられて、糧にはなってくれなかった。ただ頭の中に雑多な情報が散りばめられただけで、何も生まれなかった。


人それぞれ情報を消化できる量や速度は異なる。これだけ情報や選択肢が溢れる時代の中では、私のようにそのキャパが明らかに小さい者にとって、入れる量と内容の精査は、思いの外、大事なのだ。さらに言えば、量よりも、内容を特に見極める必要があるみたいだ。



ある学びの場でこんな言葉を聴いた。

「汝、汝の観るものを受け継がん」。

何に注目して過ごすかで、その人の物事のとらえ方や感情、行動、ひいては人生が変わってくるという。


この法則はかなり前から“知って”いたようにも思うが、改めて言葉として聴くと、今まで自分が本当に無防備に色んなものを観過ぎていたことに気づく。観なくていいものまで観て、無防備に受け止めてしまい、ムダに悩みや心配ごとを増やしていた気がする。


この世界は溺れそうなほどに情報に溢れている。そこに目(意識)を向け続けたら、恐らくは無限地獄。世間の“正解”は常に変わるし、人はみなそれぞれが信じていることを話す。きっと私は何を信じていいか分からなくなる。

だからときどき情報の遮断が必要なのだ。そんなことを肌感覚で感じるようになった。

文字通り2つの目を閉じるだけでなく、意識という“目”を閉じることもある。観るべきは、自分にとって大事な情報だけ。それを消化しながら、同時に自分の中の“声”に耳を澄ます。

言い古された言葉かもしれないが、「正解は自分の中にある」というのは、やはり真実なのだと思う。自分の内側にしか答えはないのだ。



そんなんでたくさんの情報を扱うテレビディレクターの仕事ができるの?と言われてしまいそうだが、そこはスイッチの切り替えどき。一つのネタに対してはできるだけ多くの情報を仕入れ、噛み砕き、整理して、お伝えする。そうしたことは、これまでに体得してきた職人的スキルとして両立できているみたいだ。だから今でもこの業界で生きのびている。それすら辛くなったら、きっと辞めどきなのだろう。



余談だが、“目を閉じた”ことで 、聴覚や触覚が少しずつだが敏感になってきた気がしている。今まで目に頼りすぎていた分、閉じたことで違う感覚が発動しようとしているのか?これについては現在観察中なので、また発見があったら書いてみようと思う。


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