息をするように本を読む128〜上橋菜穂子「獣の奏者」全4巻〜
本好きにとって、大好きな作家さんや作品と出逢うのは、大きな喜びだ。
その出逢いは必然なこともあるけど、そうではないときも多い。
別の本を探していて、たまたま書店で見かけて。
新聞を読んでいて、たまたま書評が目に留まって。
noteで、たまたま読ませていただいた記事で紹介されていて。
そのちょっとした機会を逃したら出逢えていなかった、かもしれない。
そう思うと、少しヒヤッとする。
そのときに出逢えなくてもいずれは出逢うことになったかもしれないが、人との出逢いと等しく、本とのそれも、逃すべからざる最良のタイミングというものがあると、私は思う。
上橋菜穂子さんとの出逢いは以前にも書いたけど、娘らが幼い頃の児童書の頒布会だった。
娘らが幅広いジャンルの本を手に取る機会になればと思って申し込んだのだけど、彼女たちと一緒に私もずいぶんいろんな本を楽しませてもらった。
そんな本たちの中に上橋さんの「精霊の守り人」シリーズの第一巻があった。
ファンタジーなのに、まるで大河ドラマのような、実際の歴史物のような、リアルな厚みのある物語。
ええっ、これが児童書?と驚きながら、娘らも私も魂を奪われ、次々と続編を購入した。
その後も、上橋さんの作品を見つけては、娘らと競い合うように読んだ。
その話は以前にnoteで書いたことがある。
実はこれらとは別にもうひとつ、上橋さんの作品で私が夢中になった物語がある。
それがこの「獣の奏者」だ。
ただ、この作品は感想文を書くのがとても難しい。それで今まで二の足を踏んでいたのだけれど。
最近、久しぶりに手に取る機会があって。
パラパラと拾い読みするつもりが、またも吸い込まれるようにガッツリと読みこんでしまった。
上橋さんの他の物語と同じく異世界のファンタジーで、リョザ神国という国で暮らすエリンという少女の成長物語。
エリンは、優れた獣医師であった母の血をひいているのか、幼いときから歳に似合わない聡明さと、生き物に対する並外れた関心と愛情、そして、恐ろしいまでの好奇心と知識欲を備えていた。
事情があって母と死に別れたあと、さまざまな紆余曲折を経て王立学舎で学び、母と同じ獣医師を目指すことになる。
この物語の世界では闘蛇と王獣という、2種類の架空の動物が存在し、それぞれに重要な役割を果たしている。
闘蛇は、蛇と呼ばれてはいるがどちらかと言えば龍に似て、全身が硬いウロコで覆われていて手足がある。水陸両生で水の中では海蛇のように素早く巧みに泳ぎ、陸では馬よりも迅速に走り、鋭い牙で敵を噛み砕く。
リョザ国ではこの闘蛇を飼い慣らして、他国との戦いに使っている。動物兵器、と言っていいだろう。
王獣は、陽光に銀色に輝く純白の毛に全身を覆われた巨獣で、闘蛇をも引き裂くことのできる鋭い爪と硬い牙を持つ。しかも巨大な翼で空を自在に飛ぶことができる。
何というか、アラビアンナイトに出てくるロック鳥と大狼を足したような、とでも言えばいいだろうか。
その恐ろしくも美しい姿は、神の子孫と言われるリョザの王、真王の象徴とされており、決して人には慣れない神聖で孤高の動物、ということになっていた。
縁あって、怪我をした王獣の子どもの世話をすることになったエリンは、持ち前の好奇心と動物への愛情から、謎とされていた王獣の生態を全てではないが解き明かし、絶対に無理だと言われていた、王獣との交流に成功してしまう。
これが、リョザ建国の昔から長く封印されていた謎を解き、エリンの、そしてその周囲の人々、この国の運命をも大きく動かす禁断の扉を開けることになる。
この物語で語りたいことは、それこそ山のようにあって。
どれを話せばいいのか、困ってしまう。
先ほど、感想文を書くのが難しい、と書いたのはそのためだ。
武力を持たずに自らは血を流すことなく神の子孫としてリョザ国を統治しているリョザの真王。しかし、その実態は闘蛇を操る太公が率いる軍隊に守られていて。
国体を維持するために穢れ無く浄らかな存在であらねばならぬという幻想(?)に囚われている真王と、実際に国を守り支えているのは自分たちなのに、血で穢れた忌むべき集団だと貴族たちからは下に見られることに不満を募らせている武人たち。
そんな危うい幻想や矛盾の上にある国家の在り方は正しいのか。
そもそも『神聖である』とはどういうことなのか。神聖な存在であるということと国家を統治するということのふたつは果たして両立するのか。
国防のための武器として使われている闘蛇を見て、生き物の生を捻じ曲げて道具として使うことを嫌悪するエリンは葛藤する。
しかし、そうならば、家畜として使われている牛や馬はどうなのか。かつては野性で野にあったものが、今はもう人の手の中でなければ生きられない動物はたくさん存在する。
動物と人間との間には、種の違いという、歴然とした超えられない溝があるはずだ。
人に飼われた動物は人との絆を築くことができる。しかし、それによって、その動物は野性を失い、本来の野での暮らしを失う。動物と絆を結ぶのは、人間の傲慢なのだろうか。
そんなことが許されるのかと自問するエリンだが、許される、とはいったい誰から許されるというのか。
物語の終盤、エリンが解き明かした闘蛇と王獣の生態に対する知識は、実はそれまでかつての為政者たちによって厳しく何重にも封印されていたものだった。
それは、彼らの過去の過ちを封印し、そして2度と再び同じ悲劇を起こさないためのものでもあった。
しかし、その戒律が民の未来を守るものであったとしても、ただ秘匿し禁止するだけでは、いつか、それは破られる。未来を守り、再びの過ちを阻止するためにも、知識は不可欠なものであり、ただ過去を封じ込めるだけではだめだ。
この世には知らなくてもいい知識があって、それが広く知られれば、悪用する者が出現するのは確かだ。だが、広く知られていなければ、阻止することもできない。知識を残すことは、未来を信じることであり、未来に託すことだ、とエリンは思う。
他にも、エリンの母の出自とその死の謎、国の成り立ちと為政者の矜持、母と子のお互いに対する想いのすれ違い…。
……あー、困った。
いくら書いても書ききれない。
このままでは、とんでもない量の文章になってしまう。
あれもこれもと、もっともっと語りたいことはたくさんあるが、ここまでにしておこう。
最後にひとつだけ言えるとすれば、この物語は、本当にとんでもない、ということだ。
本を読むことは私には特別のことではない。生活の一部であり、呼吸することと同じことだ。
この作品はあくまで児童書の扱いらしく、少年少女向けのレーベル「青い鳥文庫」にも収録されていて、それにも少し驚いたのだけど、少し前にNHKでアニメ化されていたことにもびっくりした。
アニメではどこまで原作に沿った物語になっていたのかは、見ていない私にはわからないが、こんな超大作、とても全ての内容は盛り込めなかったと思われる。
大変人気もあったようで、制作側の努力がうかがわれるが、出来るなら、このアニメを見て感動した子どもたちが大きくなって、ぜひ原作を手にとって、もっとさまざまなことを考える機会になればいい、と思う。