息をするように本を読む41 〜井上靖「敦煌」〜
私が本好きなのは、父の影響が大きいと思う。
幼い頃には、よく父が本を買ってきてくれたし、私も成長してから父の蔵書を読ませてもらったりしていた。
その父がもう1つ好きなものに、西域がある。
中国と欧州の間、いわゆるシルクロード周辺の国々のことである。
もう、何十年も前、ちょっとしたシルクロードブームがあり、NHKで「シルクロード紀行」などの特番がよく放送されていた。
あの、喜多郎さんのオカリナのテーマ曲を覚えておいでの方もおられるのではないだろうか。
実家にはシルクロード関連の写真集やノンフィクションが多数あり、その中に井上靖さんの西域小説も何冊かあって、私は勝手に持ち出しては読んでいた。
「敦煌」はその中の1冊だ。
この小説は昭和34年の出版だが、我が家にあった文庫本は昭和53年刊行の23刷のものだった。
敦煌は、西にタクラマカン砂漠のあるタリム盆地、北にゴビ砂漠を置いて、中国の中央西北部に位置する、西域への入り口だ。
紀元前1世紀ごろ。
前漢の時代、敦煌は西域と中国を繋ぐ交易都市として繁栄した。
その後、中国の王朝は次々と交代し、複数の他民族の侵攻もあって敦煌を取り巻く勢力図は変化していく。
紀元11世紀、中国が宋の時代、チベット系民族タングートの建てた西夏という新興国が勢力を拡大して、敦煌(この時代は沙州と呼ばれた)はその支配下に入った。
やがて、モンゴル帝国、そして元の時代を経て、西域交易は陸路からより安全で速い海路が中心になって、敦煌は歴史の舞台からはすっかり忘れ去られてしまった。
敦煌が再び脚光を浴びるのはそれから800年もの年月を要する。
敦煌の近郊の砂漠には鳴沙山と呼ばれる砂で出来た山があり、その東側の崖に掘られた千仏洞(莫高窟とも呼ぶ)という石窟仏教寺院群がある。
石窟内の壁には幾多の彩色仏像や壁画があって、内部に掘られた石窟の数は500近くもあった。
その歴史は古く、紀元4世紀から元の時代まで掘削は続いていたらしい。
しかし、その後は砂漠の中に荒廃するまま、長く放置されていた。
1900年代になって、その石窟寺院に1人の道士が住み着いた。
公式に任命されたのではなかったが、彼は寺院の管理人として、掃除をしたり数少ない参拝客の案内をしたりして暮らしていた。
ある日、窟内を探索していた道士はある窟の壁の一部が妙な具合に盛り上がっているのを発見する。
そしてその奥が、実は空洞になっていて更に別の窟があることが分かった。
そしてその中には、4万から5万もの膨大な数の経典や巻物が納められていたのだ。
いわゆる「敦煌文書」と言われるものである。
文書のほとんどは唐代以前の漢語で書かれた経典や写本だが、他にもサンスクリット語や古代トルコ語、チベット語、西夏語に翻訳された物、中にはヘブライ語の文書や、景教やマニ教、ゾロアスター教の経典も混ざっていた。
経典だけではない。
この時代の人々の生活を考察させるような、売買契約書や塾で使われていた教科書、土地台帳など、地誌学民俗学的価値のある物も多数見つかった。
発見された当初は直ちにその価値が認められなかったが、現在ではその研究が進み、「敦煌学」という分野が存在するまでになっている。
この文書がこの石窟内に納められたのは、先程述べたタングート人の国、西夏によって敦煌が侵攻を受けた頃らしい。
しかしなぜ、このような大量の文書がこの石窟内にまるで隠されるように納められていたのか。
井上靖の「敦煌」ではその謎解きが、歴史的事実と作者の創作を織り交ぜて描かれている。
科挙と言われる、宋の官僚登用試験を寝過ごして(!)失敗した1人の漢民族の青年が、ふと目にした今まで見たことのない文字、西夏文字に魅せられる。
彼はその文字を追って西夏へと旅をする。
物語はこの青年の視点で語られるが、私は、この小説の主人公は西域そのものだと思っている。
いわゆる中華文明発祥の地である中原(黄河中流域地帯)から離れ、黄河の西、チベット高原とゴビ砂漠の間を通る地域は河西と呼ばれる中国から西域へと続く回廊だ。
どこまで続く草原。
大洋に浮かぶ島々のように点々とオアシス都市が散らばっている。
荷駄を積んだラクダや馬を連ねた隊商が、島々を巡る船のように街を繋ぐ。
そこを抜けて敦煌に達し、玉門関と陽関という2つの関を抜けると、いよいよ西域に入る。
昼は遮るものなく太陽が照りつけ、夜は凍えるように冷え込む砂漠。
天の一角から吹き下ろす烈風に撒きあげられる砂塵、空が真っ暗になって視界がなくなるほどの砂嵐、竜巻。
果てしなく広がる砂漠のところどころに干上がった塩湖があり、砂は塩を含み琺瑯のように月の光にきらきらと光る。
その広大な過酷な大地を、千年以上の長きにわたり幾つもの民族、タタール、スキタイ、チベット、ウイグル、タングート、モンゴル、他にももっともっとたくさんの民族が馬やラクダに乗って駆け回り、覇権を巡って相争い、無数の都市国家、都邑が出現と消滅を繰り返してきた。
覇権を得て敵を滅ぼし、砂漠の中に砦を建てても、長い年月の末には砦や城壁は砂の中に飲み込まれて塵埃と化していく。
西域はそれそのものが生きていて、常に変貌し、そして何も変わらない。
この地にとって、人の争いや営みなど些末なことなのだ。
そんな有り様が、井上靖さんの冷淡なほどの落ち着いた筆致で語られる。
本を読むことは私には特別のことではない。生活の一部であり、呼吸することと同じことだ。
気の遠くなるような昔にも、人々の営みはあった。同じように人を思い、同じように人と争い、同じように悲しみ、同じように怒っていた。
当たり前だけど、とても不思議な気がする。
千仏洞のある鳴沙山は、風の強い夜には砂が鳴くような音をたてるという。
そして、その山の麓には三日月の形をした月牙泉という驚くほど青い色の泉があり、その水は千年もの昔から湧き出ているそうだ。
ぜひ一度見てみたい。
*来週1週間、お盆休みします。皆様の記事はいつも通り読ませていただきますので、コメントなどはさせていただくかも。では、また、再来週に。
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