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息をするように本を読む91〜福岡伸一「生物と無生物のあいだ」〜
『遠浅の海辺。砂浜が緩やかな弓形に広がる。海を渡ってくる風は強い。空が海に溶け、海が陸地に接する場所には、生命の謎を解く何らかの破片が散逸しているような気がする』
『ちょうど波が寄せてはかえす接線ぎりぎりの位置に、砂で作られた、緻密な構造を持つその城はある』
『砂の城がその形を保っていることには理由がある。眼には見えない小さな海の精霊たちが、たゆまずそして休むことなく、崩れた壁に新しい砂を積み、開いた穴を埋め、崩れた場所を直しているのである』
福岡伸一さん著「生物と無生物のあいだ」の第9章は、こんな文章で始まっている。
この本との出会いは、ずいぶん前のこと。
次女が読みかけて台所のテーブルに置いていたのを見た。
私は、いわゆる理系ではない。
文系、理系と簡単に分類してしまうべきでないのだろうとは思う。
ただ、学生の頃、理科系科目があまり得意ではなく相当に苦戦したので、どうしても苦手意識が先立ってしまう。決して、嫌い、な訳ではないのだけれど。
この本は次女が学校で先生に勧められたということだった。
タイトルからして、もう丸ままの「理系」という感じで、私ならまず手に取らない本だ。
「貸したげるよー。読む?」
と言われて、うーん、と考え込む私に次女が言った。
「あのね、文章があんまり理系理系してなくて、読みやすいよ。まあ、騙されたと思って読んでみたら?」
そう聞いてパラパラとページをめくり、目に入ったのが、冒頭の文章だった。
なんだ、この本は。
理系の学者さんのはずなのに、この流麗な文章はどういうことだろう。この著者はいったいどんな人なのか。
そこに興味が湧き、私は今まで読んだことがほぼないジャンルの本のページをめくることになったのだった。
福岡伸一さんは生物分子学が専門で、京都大学卒、ロックフェラー大学、ハーバード大学の研究員を経て、現在は青山学院大学の教授をされているが、この本の中では、主にロックフェラー大学、ハーバード大学のポスドク時代のことが書かれている。
ポスドクとは、ポストドクター、ポストドクトラルの略で、博士研究生とも言われ、博士号取得後に母校、あるいは別の大学の独立研究室に即戦力として任期付きで、そして、これはあまり大きな声では言えないが、なかなかの薄給で雇用される研究員のことを指す。
どこの研究室もポスドク無くてしては立ち行かない。彼らは皆、ボスのために厳しい勤務環境の下、文字通り身を粉にして研究に邁進している。福岡さんはその頃の自分たちのことをラボ・スレイブ(研究奴隷)とか傭兵などと、哀感たっぷりに語っている。
でも、福岡さんを含めたポスドクたちは、実はそんな自分たちの立場を嫌いではないようだ。
彼らは皆、例外なく、電子顕微鏡のレンズの向こうに確かに存在する、まだ誰にも解き明かされていない、だからこそいっそう蠱惑的な、科学という秘密に魅せられている。
だから、その謎から逃れることができないでいるのだ。
そもそも、福岡さんが生物学に興味を持ったのは「生物とは、生命とは何か」という、とてつもない疑問を解きたかったからだという。
生命とは何か。生物と無生物の違いは、いったいどこにあるのか。
よく言われるのは、自己複製システムを持っていること、だ。
生物がその子孫に自らと同じ形状や特質を伝えていく仕組みを解明するのは、長く科学者たちの悲願だった。
現在では、それが遺伝情報を内包したDNAの働きによるものだということは中学生でも知っている。
だが、この美しい2重螺旋による自己複製のシステムが解明されるまでには、長い時間、ときには生涯をかけた数多の科学者の努力の積み重ねがあった。
最終的に3人の科学者がDNAの謎を解き明かした勝者としてノーベル賞を受賞したが、その陰には何人もの「アンサング・ヒーロー」(讃えられることのないヒーロー)がいたのだ。そして、彼らの名はわずかな文献にひっそりと残っているに過ぎない。
そのあたりには、科学者たちの闇、というのか、少々ドロドロとした物語も数多くあったようだ。そこも読んでいてなかなかに興味深かった。
そして、最初の疑問。
生物とは何か。
生物は食糧として取り込んだ物質を栄養として吸収し、自らを形作り、消費し、やがて排出する。
この流れこそが生物が生きている、ということだ。この流れの中で細胞内のDNAが持つ情報によって次々と自己複製が行われ、生物としてのカタチが保たれる。
だが、それだけではない。
その流れは常に動いている。緩い結束を保った、そのゆっくりとした動きは不可逆であり、止めることはできない。
生物は同じカタチをしているようで、その中身は常に入れ替わっていく。
それが冒頭で引用した『砂の城』なのだ。
その緩やかな流れ、絶妙なバランスのことを、福岡さんは「動的平衡」と呼ぶ。
生物の身体は機械ではない。
わかりきったことのように思える、その事実を福岡さんはある実験によって、更にはっきりと思い知ることになる。
支障がある部分を外して別のものと交換すればそれで済む機械と、生物との決定的な違いはその流れの中で畳まれてきた時間にある。
生命は再び折り直すことのできない美しい折り紙のようなもの、とは福岡さんの表現だ。
私はこの言葉に感動し、福岡さんと同じように、生命の持つ力に驚嘆してしまった。
それがどういう意味なのか、知りたいと思われたら、ぜひ一度、この本を手に取っていただきたい。
本を読むことは私には特別のことではない。生活の一部であり、呼吸することと同じことだ。
福岡さんは、村上春樹さんの愛読者で村上さんのデビューからずっと刊行される本を読んでいるそうだ。
なるほど、福岡さんの不思議に(失礼)滑らかで詩的な文章の謎が解けた気がした。
理系の本なのに、なぜか文学作品を読んでいるような気持ちになる。理科はちょっと、という私のような方にこそ、お薦めしたいと思う。