シャワーでは、何も、流れ出さない
ほんの少し前なら、別段、特別なことじゃなかった。
友人でもある珈琲屋に会う、とか。
その場に居合わせた知人、もしくは初対面の人達と、会話に興じるとか。
特別なことじゃなかったんだ。
でも、新しい家に住み始めて、昼夜問わず、辺りに人の気配はなくて(借家が密集している地域なのに。)市街地からは、離れている。
いいこととも、悪いこととも、思わない。
ただ、ずいぶん使っていなかった筋肉を使ったような心持ちがした。
ぼくは、会話が好きでも、得意ではない。
自分は人見知りだと申告すると、(なぜか)驚かれることが多い。
たぶん、本やコーヒーのことなら、遠慮なく話しかけられるからだ。
要は、趣味、というか、手持ちの知識の範囲外だと、まったく話を広げられない。
ので、楽しくても、心の中では、常に焦ってもいる。
ぼくは、そのことに、後ろめたさを感じてもいる。
まだ、新しい家に慣れているとは、言えないけど。
なだれ込むように玄関に辿り着いたとき、ぼくは、とてつもなく安心した。
きっと、珍しくもない感情だ。
でも、ぼくは、自分が薄情者のような気分になることがある。
ひとりが好きなくせに、ずっとひとりは寂しい。
バランスが悪すぎる、と思う。でも、そういうものなんだろうか。ぼくだけに限った話じゃなくて。
「あの人は鬱病なんじゃないか」とか、「この前会った人は人見知りの上、失礼な奴だった」という話を、立て続けに耳にした。
まるで、この会話の場には、鬱病で、人見知りじゃない人間は、いないかのように。
もし、ぼくがそのとき、持ち歩いている障害者手帳を掲げたら、みんな、どんな顔をするだろう。
気まずくなって、目をそらすだろうか。それとも、「そんな風には見えない」と言われるだろうか。(実際、言われたことはある。)
多様性なんて、大嫌いだ。
多様性なんだから、本来、自分自身も含めて、なのに。
保護すべき、だとかなんとか、結局、上から目線じゃないか。
気持ち悪いんだよ。
そんなことより、自分の人生を心配すればいいのに。とか。
まあ、いいや。
障害者手帳を持っていない(と思う)人達といると、忘れそうになる。
自分は、持っていることを。今の、自分の障害等級を。年金を受給していることを。自分が、世間的には女性であることを。
全部。
なんだか、嫌になってしまったぼくは、シャワーを浴びた。
何も、流れ出さなかった。
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