まぼろしの邪馬台国~その虚像と実像
百家争鳴の邪馬台国論
邪馬台国をめぐる学問的議論は、日本古代史の中でも最大かつ多彩な論争の一つであり、学者のみならず古代史に興味を持つ一般の人々も参加する特異な論争となっています。その中心にあるのは、邪馬台国の所在地に関する問題です。さらに、国名、距離、国家の性格、女王卑弥呼の人物像などについても論争が繰り広げられています。簡単に現在までの主な論考を見ていきましょう。
邪馬台国論争の流れ
古くから「日本書紀(神功皇后摂政39年条)」などが魏志倭人伝を引用し「倭の女王」について触れているように、邪馬台国を畿内大和とし、卑弥呼を神功皇后と考える説がありました。しかし、近世に入ると、邪馬台国は大和ではないとする考え方が見られるようになります。
邪馬台国を筑後国山門郡に比定した最初の人物は新井白石です。新井は当初、邪馬台国を大和国としていましたが、倭の諸小国を九州内の地名に比定する過程で、邪馬台国だけを九州から切り離すのは不合理であると考え、筑後国山門郡に比定するようになりました。この筑後国山門郡説は、邪馬台国九州説の中でも最も有力なものとして新井によって先鞭がつけられました。
続いて邪馬台国九州説を論じたのは本居宣長です。本居は、神功皇后が卑弥呼であるならば魏へ屈辱的な朝貢をするはずはないという皇国史観的な立場から、邪馬台国は大和国ではなく、「熊襲の類」の国であるとしました。この説は後に鶴峰戊申や近藤芳樹らによって深められ、近藤はさらに『征韓起源』において邪馬台国を肥後国菊池郡山門郷とする新説を提唱しました。
邪馬台国論争の火ぶたが切られたのは1910年、白鳥庫吉の邪馬台国九州説と内藤湖南の大和説によってです。白鳥は「邪馬台国への道」を精緻に展開し、邪馬台国の領域を北九州全域に求めました。一方、内藤は魏志倭人伝の本文批判を重視し、邪馬台国が大和であることを主張しました。白鳥説を補強する形で邪馬台国九州説に関する論陣を張ったのは橋本増吉であり、内藤説を支持しながら卑弥呼を倭迹迹日百襲姫に比定したのが笠井新也です。
そして第二次世界大戦前までの日本古代の歴史教育は邪馬台国論争とは無縁な形で行われていましたが、戦後の学問・言論の自由の中で、邪馬台国問題が広く国民の前に現れました。邪馬台国九州説の立場に立つ藤間生大の連合国家論、井上光貞の原始的民主制国家論、大和説による上田正昭の古代専制国家萌芽論などその政治体制についても議論の的となりました。
その後も多士済々な方々によって邪馬台国候補地が乱立しますが、すべては書ききれないので興味のある方は棟上寅七さんの「邦光史朗『邪馬台国の旅』光文社 カッパブックス 1976年11月刊 批評」や「邪馬台国」などの検索ワードでネット上を参照してみてください。想像力の遥か上を行く奇想天外な邪馬台国に出会えるかもしれません。
また西暦2000年ごろから炭素の放射性同位体であるC14を利用した放射性炭素年代測定が考古学の分野でも活用されはじめ、春成秀爾は箸墓古墳出土の「布留0式」と呼ばれる土器に付着していた炭化物を、当時最新の国際較正曲線データIntCal09と歴博独自の曲線データ(尾嵜大真「日本産樹木年輪試料中の炭素14濃度を基にした較正曲線の作成」)で評価した結果、箸墓古墳が築造された直後の年代を西暦240~260年としました(春成秀爾「古墳出現期の炭素14年代測定」)。これが魏志倭人伝に記される卑弥呼の没年に近いということを理由に、大正期から邪馬台国畿内説を唱えていた笠井新也の「女王卑弥呼=倭迹迹日百襲姫命」説を補完するものだとして、「邪馬台国は畿内にあった」と考古学会を中心に盛り上がりを見せることになります。
邪馬台国をめぐる論争の根本原因
ざっと、これまでの邪馬台国論争を見てきましたが、これだけの人々が議論を尽くしても、いまだ卑弥呼のいた邪馬台国にたどり着けてはおりません。それは何故なのでしょうか。
おそらく、皆それぞれが思い描く邪馬台国像と現実の邪馬台国との間に齟齬があるからだと推測します。
邪馬台国のイメージ
・三国志の強国である魏から認められて金印を授かった邪馬台国はすごい
・卑弥呼死後の百数十年後に三韓征伐を行えるだけの国力を備えていたのだから邪馬台国も強国だったに違いない
・邪馬台国は伊都国に軍隊を駐屯させ、一大率によって周辺諸国に睨みを利かせていた
・邪馬台国の後、古代日本で覇を唱えた大和王権が大和にあったのだから、邪馬台国も大和にあったはずだ
・3世紀に鉄資源の大半を握っていたのは北部九州なので、魏志倭人伝に鉄の記述がある邪馬台国も北部九州にあったにちがいない
<邪馬台国は強大な国家であった、その邪馬台国と敵対した狗奴国もそれ相応に強大な国力を有していたに違いない>
多くの人の思い描く邪馬台国のイメージの根底には、このような印象があるのではないでしょうか。
この幻想こそが邪馬台国を覆い隠してしまう原因となっています。
そして、こうした思いを抱かせてしまう理由は、誤解を生みやすい魏志倭人伝の記述にあります。
誤解を生む魏志倭人伝の記述
私が魏志倭人伝を読んで率直に感じたのは、簡素でありながらも要点がよくまとまった業務報告書であるというものでした。しかしながら「邪馬台国は強国」であるかのように錯覚してしまう表記が、この魏志倭人伝には散りばめられているようにも思いました。
人々を錯覚させる表記はどこなのか、それを解説していきます。
一大率の職責
<現代語訳> 女王国の北には特に一大率という官が置かれ、諸国を検察し、諸国は之を畏れていた。常に伊都国で治められており、中国でいう刺史のようである。王が魏の都、帶方郡、韓の国々に使者を派遣する際や、郡の使者が倭国に来た際は、皆が港に出向いて調査、確認する。文書や授けられた贈り物を伝送して女王のもとへ届けるが、数の違いや間違いは許されない。
邪馬台国の所在地論の中で、「邪馬台国は伊都国に軍隊を置き、一大率によって諸国を監視させていた」というものがありますが、これは誤りです。
魏の国において刺史は文官職を指します。刺史が武官を兼ねる場合は「牧」という別の役職となるか、刺史とは別に将軍職を兼任することとなります。つまり魏志倭人伝に記された「刺史のような」一大率の職責とは純粋な文官職です。
魏の地方官
州牧 四品(年俸2000石。刺史が兵権を兼ねたもの)
州刺史 五品 (年俸600石。州の行政長官)
(参考:筑摩書房『三国志』載録の洪飴孫『三国職官表』より一部を抄出)
また訳文にある通り、その仕事内容も弥生時代の貿易港「伊都国」に駐在する物流担当職員そのものです。
なお「率」は本来中国語では「帥(長官)」の意味(張明澄)とされます。また「一大」は「原の辻=三雲貿易」の原の辻遺跡の所在地、壱岐国石田(イッター)郡の訛化したものと考えられます。魏志倭人伝で壱岐を「一大」と称する理由です。
つまり一大率とは、壱岐(貿易担当)長官という意味合いになり、そこに軍事力は伴いません。
魏志倭人伝にある「諸国は之を畏れていた。」という記述は、入出庫の品物の数が違えば、己の汚職が疑われることとなり、罪に問われれば「其犯法 輕者没其妻子 重者没其門戸及宗族(その法を犯すと軽いものは妻子を没し(奴隷とし)、重いものはその門戸や宗族を没する。)」となるため、品物の検品には常に神経を尖らせていたはずです。交易相手の諸国はその剣幕に恐れおののきもしたことでしょう。
一夫多妻制の真実
<現代語訳> その習俗は、国の権力者は皆、四、五人の妻がいる。一般の国民も二、三人の妻を持つ。婦人は淫らではなく、嫉妬もしない。
この解釈をどのようにするべきか。センシティブな問題をはらむ為、学者はこの問題を取り扱うことを避けているようですが、邪馬台国強国論の根源となっている可能性があるのであえて触れます。
動物界において、強い雄が多くの雌を囲う一夫多妻制がありますが、魏志倭人伝では、それが権力者だけでなく、一般の国民も二、三人の妻を持つととされています。
二、三人の妻を持つ一般国民の特殊な例を記載したのではないかという考えもできますが、それであれば2000字程の報告書の中でわざわざ記載する必要もありません。この状況が邪馬台国では常態化していたとみるべきでしょう。
生物学的に男女の誕生比率はほぼ1:1の割合で生まれてきます。
この女性の比率が異常に高い理由は何故でしょうか。
邪馬台国が征服したクニグニの女性を妻としたのでしょうか。しかしその場合、身分制度が確立されていた邪馬台国では、市民権を得た「妻」という表記ではなく「女の生口を持つ」という表記が妥当と思われます。
また妻を持つことが男性の自由意志で可能なのであれば、「婦人不淫不妬忌」というある種諦観にも似た感情とは異なる、さまざまな欲望が交錯した社会になっていそうです。
端的にいえば邪馬台国内では女性が多いのではなく、成人男性が極端に少ない状況に陥っていた可能性があります。そして、成人男性が少ない理由として最も有力な解釈は、戦闘による死亡です。
過酷な環境や戦乱の絶えなかった人類史の中で、家族の絆と社会の秩序を守るために様々な婚姻の形が生まれました。その一つが、亡き兄弟の妻を娶るレビラト婚です。ユダヤからモンゴル、チベットに至るまで、この習慣は世界中に広がりました。
ところが中国では儒教の教えと相まって、この習慣を蛮族の風習とし強く忌避しました。卑弥呼とほぼ同じ時代、蜀の劉備と劉瑁の未亡人(呉氏)の結婚は同姓の妻というだけで否定的に見られました。
「下戸或二三婦」、しかし「婦人不淫不妬忌」の表記からは、自由意志によらず邪馬台国では戦闘によって死亡した成人男性の未亡人を遺族の兄弟が娶る制度(義務)があったと解釈できます。
儒教の影響が強い中国の常識では非常に野蛮なこととしてとらえていたレビラト婚という風習を、金印まで授けてしまい、さらに「率善(正しい道理に従い、道徳にかなうものを導く)」などという役職名まで与えてしまった邪馬台国が行っているという事実を魏志倭人伝に直接記すわけにはいかなかったと思われます。そのため事実を記しつつも直接的な表現は避け、「下戸或二三婦 婦人不淫不妬忌」という短い13文字で表現したのでしょう。
しかし実際、仮に成人男子1人につき2人の妻がいたと仮定すると、邪馬台国の成人男子の死亡率は50%を超えていたことになります。
これが事実だとすると、国家としては滅亡の淵にいたといってもいいでしょう。私自身も信じがたい数字なので、これまで顧みて来られなかったことにも納得できるのですが、先の「弥生時代の九州(熊襲の国)」でみたクマ国の伸張度合から、侵攻を受けた邪馬台国の被害として真実なのではないかと考えています。
これほどの損耗率を許容できたからこそ、魏志をして「事鬼道能惑衆(鬼道の祀りを行い人々をうまく惑わせた。)」と言わしめたのでしょう。
なお、弥生時代の終わりに九州から畿内へ遠征する神武に従った久米族の戦闘歌である久米歌には次のような節があります。
<現代語訳>古妻が酒菜を欲しがったら、肉の少ないところを剥ぎ取ってやるがよい。
新しい妻が酒菜を欲しがったら、肉の多いところをたくさん剥ぎ取ってやるがよい。
現在も宮内庁楽部で歌舞されている久米歌で、かなりひどいことを言っていますが、ここで重要なことはこの歌を聴いて、その内容を共有でき、部族が団結し高揚できるほど、戦闘集団久米族にとって前妻と後妻がいることが当たり前だったという事実です。
千人の侍女の謎
魏志倭人伝に話を戻します。
卑弥呼に仕える侍女が千人いたとする記述があります。
<現代語訳>(卑弥呼が)王となってから、朝見のできた者はわずかである。侍女千人がいて、(指示もなく)自律的に仕えている。ただ男子一人がいて、飲食物を運んだり言葉を伝えるため、女王の住んでいる所へ出入りしている。
さて、これも不思議な記述です。千人も侍女がいながら、指示されるわけでもなく「自ら侍」しているわけです。そして実際の卑弥呼の身の回りのことは、卑弥呼の弟でしょうか男子一人が行っていて侍女たちは関与していません。つまり侍女たちは、(畑作業などはしていたとは思いますが)卑弥呼に養われる存在とみるべきでしょう。
これは通常考えられる侍女ではなく、邪馬台国の身寄りのない老女たちを受け入れていたのではないかと推測しています。
魏への朝貢の目的
そもそも邪馬台国が魏に朝貢した目的は援軍要請にあります。
金印が欲しかっただけではないことは、西暦240年の金印授与後にも、243年と247年にも邪馬台国から魏へ使者を派遣し狗奴国との戦いの窮状を訴え、最終的に魏もその援軍要請に応じていることからも明らかです。
邪馬台国と魏との外交年表
西暦239年 大夫の難升米と次使の都市牛利を帯方郡に派遣し、天子に拝謁を願い出た。帯方太守の劉夏は彼らを都に送り、使者は男の生口(奴隷)4人と女の生口6人、班布2匹2丈を献じた。
魏の明帝・曹叡は女王を親魏倭王とし、金印紫綬を授けるとともに真珠鉛丹各五十斤(11.3kg)を含む莫大な下賜品を与えた。また、難升米を率善中郎将、牛利を率善校尉とした。
西暦240年 帯方太守弓遵は建中校尉梯儁を、詔書と印綬を持たせて倭国へ派遣し、倭王の位を仮授するとともに下賜品を与えた。
西暦243年 女王卑弥呼は魏に使者として大夫伊聲耆、掖邪狗らを送り、生口と布を献上。魏の少帝・曹芳は掖邪狗らを率善中郎将とした(『三国志』魏書少帝紀)。
西暦245年 皇帝曹芳は帯方郡を通じ難升米に黄幢(黄色い旗さし)を下賜した。
西暦247年 女王は帯方太守王頎に載斯烏越を使者として派遣して、狗奴国との戦いについて報告。太守は塞曹掾史張政らを倭国に派遣した。
(年代不明)卑弥呼は死に、冢を大きく作った。直径は百余歩。徇葬者は奴婢、百余人である。
(年代不明)新たに男王を立てたが、国中が不服で互いに殺しあった。当時千余人が殺された。
(年代不明)卑弥呼の宗女、壹与、年十三、を立てて王と為し、国中が遂に治まった。張政たちは檄をもって壹与に教え諭した。
(年代不明 西暦266年か?)女王に就いた壹与は、帰任する張政に掖邪狗ら20人を同行させ、掖邪狗らはそのまま都に向かい男女の生口30人と白珠5,000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだ。
(以上 魏志倭人伝)
西暦266年 倭が晋に朝貢した。
泰始初、遣使重譯入貢「晋書四夷伝(東夷条)」および
(泰始2年(266年))十一月己卯、倭人來獻方物「晋書武帝記」より
其山有丹の意味と魏皇帝曹叡
魏志倭人伝にある邪馬台国の魏への献上品のなかに「白珠」が白珠5,000孔(粒)と表現されていることから、「白珠」はパール(Pearl)と推測されます。それでは、下賜品の中にある「真珠五十斤(11.3kg)」とは何でしょうか。おそらくその重さの単位からパール(Pearl)ではなく、水銀の意味である「真朱」の誤記と考えられます。
では、「出真珠青玉 其山有丹(真珠、青玉を産出する。その山に丹あり)」の丹を水銀とすると、なぜ邪馬台国では自国で水銀を産出するのに、「故鄭重賜汝好物也(そのために鄭重に汝(卑弥呼)の好む物を賜うのである)」と魏にわざわざ水銀をねだる必要があるのか疑問が生じます。また「以朱丹塗其身體 如中國用粉也(朱丹を以ってその身体に塗るは、中国の紛を用いるが如くなり)」とあるように、邪馬台国ではごく普通の消耗品として「朱丹」を扱っている様子が描写されています。当時の貴重品の水銀であればこのような利用法は考えられず、そもそも水銀を皮膚塗るなどしたら水銀中毒となり死に至ります。つまり魏志倭人伝に記された丹とは、朱(水銀)ではなく赤色顔料(ベンガラ)と考えるのが合理的です。
どうも以朱丹塗其身體という邪馬台国の習俗が強烈すぎたためか、「邪馬台国は水銀大国」という誤解が生まれてしまったようです。古代中国では水銀は聖なる薬であり、水銀を含む丹薬は錬丹術の不老不死の妙薬とされてきました。もしかしたらそれらの誤解もあって、晩年に重篤な病に侵されていた魏の皇帝曹叡は女王国の使者たちを謁見しようと思ったのかもしれません。
なぜ魏は邪馬台国へこれほど手厚く厚遇したのかを呉に対する牽制が目的だったと捉える考察もありますが、私は謁見の翌年には死去してしまう曹叡の個人的な感情によるところが主だったように思えます。
破格の叙爵
邪馬台国論争では卑弥呼に与えられた親魏倭王の金印に注目が集まっていますが、魏は女王国の使者である難升米や牛利、そして掖邪狗にも「率善中郎将」や「率善校尉」の官位を銀印青綬とともに与えています。これも実は破格といっても良いくらいの高い地位となっています。
「率善中郎将」や「率善校尉」は魏での常設の官位ではなく、その地位がどれほどのものかを直接知るすべはありませんが、銀印青綬が与えられていることからその身分を類推することが可能です。
魏では銀印青綬の俸給は最低でも比二千石相当以上のものとなっていました。
またUNK教祖さんがまとめた「後漢・三国志時代の官職・軍官編」によると、比二千石相当は官位にして五品となり、郡級太守の五品(年俸二千石)と同格となります。仮に率善中郎将が『三国職官表』にある異民族を統禦した外軍の護匈奴中郎将と同格とすると、官位に関しては四品となり、郡級太守の上位となります。
率善中郎将 難升米 銀印青綬(比二千石相当以上) 五品(または四品)
掖邪狗 同上
率善校尉 牛利 銀印青綬(比二千石相当以上) 五品
それまで国交のなかった辺境の一部族である邪馬台国の、それも初見訪問の使者たちに与えるには過剰とも言える官位であったことが窺がえます。
これは、制詔の中に「汝來使難升米 牛利 渉遠道路勤勞 今 以難升米為率善中郎将 牛利為率善校尉 假銀印靑綬 引見勞賜遣還(汝の使者、難升米と牛利は遠くから渡ってきて道中苦労している。今、難升米を以って率善中郎将と為し、牛利を率善校尉と為す。銀印青綬を与え、引見してねぎらい、下賜品を賜って帰途につかせる)」と魏の皇帝が直接難升米と牛利に会うことを願ったがために、急遽昇殿が許される官位である五品を与えた可能性があります。
軍事政権であった魏の帯方郡太守にとって、ある意味名誉職である「親魏倭王」よりも、五品の武官である「率善中郎将」や「率善校尉」からの援軍要請は無下にできないものだったと思われます。その効力は覿面で、帯方郡太守王頎は当時不穏だった朝鮮半島情勢を差し置いても、邪馬台国に部下の張政らを派遣までしてくれています。
その甲斐もあってでしょうか、卑弥呼死後、少なくとも20年ほどは新女王の壹与の元、国家の命脈を保てていたようです。
まとめ
今回の内容をまとめます。
・一大率は文官であり、軍事力は持たない
・邪馬台国の成人男性の過半数は戦禍で失われていた
・卑弥呼に仕える千人の侍女は身寄りのない老女と考えられる
・魏への朝貢の目的は金印授与ではなく援軍要請であり、邪馬台国は存亡の淵に立たされていた
・邪馬台国は朱(水銀)の大国ではなく、丹(ベンガラ)の大国だった
・魏の邪馬台国への厚遇は魏皇帝曹叡の個人的な感情によるところが大きい
・魏が女王国の使者へ与えた叙爵は破格の対応だった
以上、邪馬台国の誤解されやすい部分の記述をめぐり考察をしてみました。
邪馬台国畿内説にとっても北部九州説にとっても信じがたい部分があったと思いますが、それこそが邪馬台国を覆い隠していた闇であったのではないでしょうか。
邪馬台国は強国にあらず
次回、この観点から私がたどり着いた邪馬台国に迫ってみます
余談
それにしても卑弥呼死後の混乱期にも邪馬台国に留まり続け、七品という卑官の身でありながら、職務に忠実に一国の女王である壹与を教え諭し、帰国もおそらく20年後となったであろう塞曹掾史張政には、お気の毒というか「ご無事に帰国出来てなによりでした」と言いたくなります。
なお、張政の上司であり帯方郡太守であった王頎という人は、後に天水太守に転任しています。西暦263年(景元4年)、王頎は鄧艾の命を受けて蜀に対する征討に従い、沓中の姜維の軍営を攻め、彊川で姜維を追撃して破るなど戦術眼に長けた人物であったようです(『三国志』魏書鄧艾伝)。
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