宮崎政宏

1973年東京生まれ、千葉県我孫子市在住。近所に物部系由来と思しき地名が多くあり古代史…

宮崎政宏

1973年東京生まれ、千葉県我孫子市在住。近所に物部系由来と思しき地名が多くあり古代史に興味を持つ。その由来を調べるうちに自分なりの古代史観ができたので忘れないうちにnoteにメモしておきます。

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  • 虚空から日本を見てみよう

    古代の日本をさまざまな角度から検証してみます。

最近の記事

邪馬台国 菊池郡山門説 -うてな遺跡-

 古代日本の謎として長く議論が続いてきた邪馬台国の所在地。300年以上にわたる論争は、いまだ決着を見ていません。  前回、まぼろしの邪馬台国~その虚像と実像で示しましたとおり「邪馬台国は強国ではなかった」という視点を元に、その所在地を突き止めてみようと思います。 従来説の問題点 邪馬台国畿内説の問題点  畿内説は、魏志倭人伝の重要な記述である「自郡至女王國 萬二千餘里」(帯方郡から女王国まで12,000余里)を無視しています。また、「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國

    • まぼろしの邪馬台国~その虚像と実像

      百家争鳴の邪馬台国論  邪馬台国をめぐる学問的議論は、日本古代史の中でも最大かつ多彩な論争の一つであり、学者のみならず古代史に興味を持つ一般の人々も参加する特異な論争となっています。その中心にあるのは、邪馬台国の所在地に関する問題です。さらに、国名、距離、国家の性格、女王卑弥呼の人物像などについても論争が繰り広げられています。簡単に現在までの主な論考を見ていきましょう。 邪馬台国論争の流れ  古くから「日本書紀(神功皇后摂政39年条)」などが魏志倭人伝を引用し「倭の女王

      • 弥生時代の九州(熊襲の国)

         今回は九州南部、現在の宮崎県と鹿児島県に居住していた「熊襲」について見ていきます。なお本稿では、考古学的な出土品の状況から熊本県南部の球磨郡も熊襲の範囲に含めています。 クマソの国  『古事記』には熊曾、『日本書紀』には熊襲と表記され、『筑前国風土記』では球磨囎唹と表記される九州南部のクマソ国ですが、現在に残る地名の妥当性から、これは「日本人種新論」で青柳高鞆が指摘したように球磨(熊本県球磨郡・人吉市・あさぎり町)と囎唹(曽於市・志布志市・霧島市・姶良市の一部)の連称表

        • 奴王国滅亡

           前回は、西暦1世紀頃に発生した南海トラフ巨大地震によって、瀬戸内海沿岸に暮らす人々が難民となり、古事記上巻のイザナギによるスサノヲの神逐はそのことを表していると言及しました。  今回は、津波に追われた瀬戸内の難民「スサノヲ」の人々がどこに行き、何をしたのか、まずは古事記の続きをみていきます。 スサノヲ高天原へ (現代語訳)(スサノヲがこちらに来ることを聞くと)アマテラスは驚いて、「スサノヲが来るのは良からぬことを考えているのだろう。私の国を奪つもりかもしれない」と呟い

        邪馬台国 菊池郡山門説 -うてな遺跡-

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        • 虚空から日本を見てみよう
          8本

        記事

          南海トラフ巨大地震と高地性集落の出現

           前回、弥生時代の「豊の国」では、弥生時代中期と後期の間に銅矛の形状や奉斎エリアが変わるなど、なにかしらの社会変化が生じたのではないかというお話をしました。  今回は同じ時期、主に瀬戸内海周辺で生じた変化「高地性集落の出現」の謎を解き明かし、それが及ぼした影響についてみていきましょう。 高地性集落の分布  高地性集落は、紀元1世紀前後の弥生時代中期から後期にかけて、主に瀬戸内海沿岸の海抜100m以上の周囲を眺望できる山頂や丘陵の尾根上などに形成されはじめた集落です。  

          南海トラフ巨大地震と高地性集落の出現

          弥生時代の九州(豊の国)

           前回は現在の福岡県西部のエリアとなる「筑紫の国」と佐賀県、長崎県、そして熊本県を領域とした「肥の国」の成り立ちについてみてきました。  今回は、現在の福岡県東部と大分県の領域からなる「豊の国」が弥生時代はどのようなところだったのかをみていきます。なお、本稿では宗像市以東の遠賀川流域も弥生時代の痕跡から見て「豊の国」として扱います。 豊の国は「物部氏」の故郷  『日本書紀』には、神武天皇に始まるヤマト王権よりも先に饒速日が大和を治めていたと記されています。  民俗学者の

          弥生時代の九州(豊の国)

          虚空からの視点

          はじめに 「虚空から日本を見てみよう」というタイトルには、現代の我々が、まるで空から俯瞰するような視点で古代日本を見つめ直し、その姿を捉え直すという意図が込められています。古代日本は、数千年にわたる豊かな歴史と多様な文化を持っていますが、その全貌は未だに多くの謎に包まれています。 知見の集積 これまで考古学、地理学、歴史学、文化人類学など各分野で詳細な研究が行われてきました。考古学的には縄文時代や弥生時代、古墳時代の遺跡発掘が進み、多くの貴重な発見がなされました。地理学

          虚空からの視点

          弥生時代の九州(肥の国・筑紫の国)

          古代の九州は大陸との窓口でした。 特に弥生時代の九州の勢力図がどのようなものであったのかを考察することは、その後の日本史を辿る上でも欠かせません。 まずは、手掛かりとなる北部九州、肥の国・筑紫の国の成り立ちから見ていきましょう。 《現代語訳》(イザナギは)次に筑紫の島を産みました。この島も、からだ一つに4つの顔があり、顔ごとに名前がありました。筑紫の国は白日別といい、豊の国は豊日別といい、肥の国は建日向日豊久士比泥別といい、熊襲の国は建日別といいます。 古事記の「国生み」

          弥生時代の九州(肥の国・筑紫の国)