幸せに生きるために「成果」は必要なかった。
突出したトクベツな才能はない。
そのくせ、繊細で打たれ弱いっていう、厄介な特性は持ち合わせていて。
せめて“普通”でいなければと必死に“普通”な自分を作り上げようとしたけれど、それも上手くいかず。
それならばもう、目に見える成果とか、何者かである証拠とか、そういうものを手に入れるしかない。そういうものがないと、幸せになれない…!
そんなふうに思っていました。
だから、すごいキャリアがあったり、目に見える何かしらの形で結果を出している人と自分を比較して、「自分はなんて無価値なんだろう」「自分はなんて劣った存在なんだろう」と自己卑下しまくっていて。
……けれど、違ったんです。
幸せに生きるために、「成果」なんて必要ありませんでした。
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心身に大不調を来して、生きることだけで精一杯だったころ、わたしは日常の中の幸せに気づくことも、感じ取ることもできませんでした。
苦痛の中、毎日をどう乗り切るか、この先の絶望的な未来をどう生きるのか……それしか考えられなくて、とにかくいっぱいいっぱいだった。
あの頃のわたしは、この世界を“絶望”というフィルターを通してしか見られなかったから。
けれど今は、愛犬とのお散歩を穏やかに楽しむことができるし、外気に漂う香りや、綺麗な夕日のグラデーションに感動できるし、食事を美味しく味わえるし、大好きな家族と笑い合える。
そんなふうに、日々の暮らしの中で自然と感謝が湧いてきて、心から幸せを感じて生きられるようになったんです。
これって、何か成果を出すことよりも……
というか、何よりも価値があることだと思うんです。
日々の中にある幸せに気づけること。
日常に幸せを感じながら生きられること。
それってつまり、幸せな人生だよね。
なら、そんな状態にいる今、
「幸せ」ってすでに叶ってる。
成果を出してから、何者かになってからじゃないと幸せになれないなんて、とんだ勘違いでした。
自然を美しいと思えること。
食事を美味しいって感じられること。
くだらない話で笑い合えること。
学びを楽しいと思えること。
未来に希望が持てること。
そういう一番大事なものを、もう手に入れてた。すでにわたしは幸せだったんです。
“すでに幸せ”っていう、その前提があるからこそ、欠乏感からではなく、満たされた状態から「この世界でさらに自分を生かしていくには、どうしたらいいんだろう?」って視点を持てるようになる。
だから、何かを成し遂げようとするよりも先に、まずは「幸せを感じられる自分」という土台をしっかりと固めることが大切なのです。
ここを整える前に、
“自分を生かして生きるには?!”
“何か成果を出さなくちゃ!!!”
っていう方向に走っても、そのゴールは本当の幸せには繋がっていないのですよね。
幸せはどこか遠くにあるわけじゃなくて “自分自身のなか” 、“今ここ” にあるものだから。
まさに「幸せの青い鳥」。
わたしたちはつい、誰の目にも見える“成果”や、わかりやすい“価値”っぽいもの、煌びやかな“豊かさ”っぽいものを得ることこそが幸せなのだと思ってしまう。
だから、「どこか遠くにある」「今持っていないもの」を追い求めて、必死になる。
けれど、実際は「外側にある何か」を手に入れることが幸せなのではなくて。
「幸せを感じられる自分になること」が何よりも大切で、それが“幸せ”になるということなんだと感じています。
いくら外側にある “幸せっぽいアレコレ” を手にしても、自分自身(内側)に “幸せをキャッチできる心” が伴っていなかったら、それは空虚なのです。
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まずは「幸せを感じられる自分」という土台をしっかり固める。
その上で自分の本音に沿って何かを求めるのは、自分らしい人生を送る意味でも、すごく素敵なことだと思っています。
でも、その場合もただ「何か」を得ることを目的にするのではなくて、「わたしはなぜ、それを得たいのか」という本音をしっかり伴わせることは忘れずにいたいところ。
自分の本音が伴わない「表面的な願い」だけを叶えようとすると、どこかで立ち行かなくなるから。
大切なことは「表面的な願い」を叶えることではなくて、それを得るためのプロセスで「自分の内側に得られる変化」のほうなのです。
↓このあたりのお話とも繋がってくると思うので、よかったらこちらもどうぞ☺️
わたしたちが生きるこの世界って、目に見えるものや目立つものが正解だと感じさせるような作りになっているけれど、ほんとうは見えない方(自分の内側)が主体で、目に見える成果や結果は、そのおまけみたいなもの。
でも、この関係性って、普通に生きているとどうしても見えなくなりがちだし、忘れてしまうのですよね。
だから、こうして思い出せる場を作っておくのです。忘れたら、その都度、戻ってくればいい。そんな場所を、日常の中にたくさん散りばめておく。
ここが、自分の軸に戻ってくるための “碇” になりますように。