『UXデザインの法則』をなぜ訳したのか
翻訳に携わった『UXデザインの法則 最高のプロダクトとサービスを支える心理学』(オライリー・ジャパン、2021年、Jon Yablonski著、相島雅樹、磯谷拓也、反中望、松村草也訳)が2021/5/18に発売されます。発売を前に翻訳の意図や思いについてまとめておきます。
翻訳の意図の要約:
・「だってなんだかだってだってなんだもん」では済まされないITサービスに溢れた世界を生き延びるため、
・薄くてわかりやすい、プロダクト・サービスと心理学の本を訳しました
なぜそうしたのかを自覚的でありたい
最近、すこし「ダークパターン」が話題です。
ダークパターンは、心理学を巧みに活用し、企業の利益のためにわたしたちの行動を誘導するようなテクニックをいいます。ECサイトで期間限定セールの表示を強調し、焦りを煽って購買につなげるような事例が当てはまるでしょう。
わたしたちは、GAFAに代表されるITのサービスに行動を操られてしまい、
ゆきすぎたUXのテクニックが、社会の前提たるわたしたちの主体性を脅かしている。ITの巨人たちはもはやビッグブラザー(テクノロジーを活用した独裁的権力)となってしまった。
上述のような危惧は、カルフォルニア州で法整備にまで至ったのでした。このように「ダークパターン」の議論は、主に作り手の側の責任を問います。
しかし、
させられている、と、している、をわけるものはなにか、
に明確に答えられる人は多くないのではないでしょうか。
「なんで?そうしちゃったの?本当にそうしたかったの?」
わたしたちは「そういうもの」と受け入れることを学習と呼び、NHKの教養番組で小児に思考停止を怒鳴られる下地を日々つくりあげています。
説明責任の強力な武器である「前にそうしていたから」という理由は、根拠の頑健さという意味では、「だってなんだかだってだってなんだもん」という説明になっていない説明とさほど大差ない気もしますが、日常で広く受け入れられている素朴な論証といえるでしょう。そのおかげでわたしたちは多くの失敗を回避しつつ、ものごとを先へ先へと進めていくことができます。
しかし、いったいそのときわたしたちは自分で選び取ってそうしたのか、先人たちがそうしていたからそうしたのか、いったいどちらなのでしょうか?(わたしの答えは「どちらも」です)
唐突ですが、ITを活用したプロダクトやサービスの本質はコミュニケーションであるといえるでしょう。
サービス事業者やプロダクトの提供者たちは、わたしたちが考えなしにおこなっている行動の法則を捉え、それにあわせて自分たちのゴールを達成しようとします(あいまいでとらえどころのない「わたしたちの意図」にあわせようとはしていないのです)。
コミュニケーションには、前提があります。諸制度の設計の前提となっている主体性の正体とは、この与件を知ることを怠らない知恵を持つ存在、とわたしは解釈しています(それと同時にそれを完全にやりこなせる個人などというものがいかに不可能なのか、とも強く思っています)。
わたしたちの心の働きという与件は、コミュニケーションの前提の多くを占めているのでしょう。
ダークパターンでさえひとつのコミュニケーションなのですから、このわたしたちの心の働きという与件を知っていること、相手がどのようにその心の働きを利用しているかを知ることが、主体的に生き抜くための必須要件なのではないでしょうか。
そんな大事なことなら義務教育で教えてくれよ、とも思うのですが、知っていることよりも大事なのは、なにより「与件を知ることを怠らない」という学習能力なのだと思います。
というわけで思い立ったが吉日、もっとも手早く、この与件たるサービスとプロダクトに活かされる心理学を知ることが、今日ITとは無縁ではいられないわたしたちにできることです。
彼を知り己を知れば百戦殆からず。まずは自分を知る知恵が、コミュニケーションの基本にあると孫子も申しております。
『UXデザインの法則』は
サービスがどうやって作られていて、
どうして自分がそうしてしまったのかを理解するための本
非常に長くなりましたが、これこそが、サービスとプロダクトの設計に携わるデザイナーに向けられたデザイナー向けのハンドブック『UXデザインの法則 最高のプロダクトとサービスを支える心理学』を、ノンデザイナー向けに翻訳したわたしなりの「だってなんだかだってだってなんだもん」となります。
ITプロダクトとサービスを利用しない、関わらない人は少数です。
だからこそ、ITプロダクトとサービスに関する心理学の本は、より多くの人が読みやすいものであるべきです。
本書は、
・160ページとコンパクトに
・図像がいっぱいでカラフルに
・豊富な事例から
・ごく限られた重要な法則を10つだけ
・学術的起源やUXデザインの歴史、キー概念を総ざらい
紹介しています。
本書では、法則から導かれる学びを完結に伝えている(p.54)
わずか10つの法則を知れば、どのようにデザイナーがあなたに向けてプロダクトとサービスをつくっているのかがおおよそわかります。
本書で紹介されている10の法則:
ヤコブの法則:ユーザーは他のサイトで多くの時間を費やしているので、あなたのサイトにもそれらと同じ挙動をするように期待している。
フィッツの法則:ターゲットに至るまでの時間は、ターゲットの大きさと近さで決まる。
ヒックの法則:意思決定にかかる時間は、とりうる選択肢の数と複雑さで決まる。
ミラーの法則:普通の人が短期記憶に保持できるのは、7(±2)個まで。
ポステルの法則:出力は厳密に、入力には寛容に。
ピークエンドの法則:経験についての評価は、全体の総和や平均ではなく、ピーク時と終了時にどう感じたかで決まる。
美的ユーザビリティ効果:見た目が美しいデザインはより使いやすいと感じられる。
フォン・レストルフ効果:似たものが並んでいると、その中で他とは異なるものが記憶に残りやすい。
テスラーの法則:どんなシステムにも、それ以上減らすことのできない複雑さがある。複雑性保存の法則ともいう。
ドハティのしきい値:応答が0.4秒以内のとき、コンピューターとユーザーの双方がもっとも生産的になる。
プロダクトと心理学の本はどんどんと増えています。
『超明快 Webユーザビリティ ―ユーザーに「考えさせない」デザインの法則』、『Hooked ハマるしかけ』あたりを走りとして、『インタフェースデザインの心理学』(は最近第2版がでました。ただ、法則数が多い上にインタフェースデザインでの議論に終止していてあまり好みではないです)もありましたし、弊訳『行動を変えるデザイン』は本質的な名著だと思いますがいかんせん分厚い!
近刊では、『脳のしくみとユーザー体験』がでています。
これだけ多くの書籍がでる分野だからこそ、プロダクトとサービスの心理学を手早くまとめた基本書が重要なのだと考えます。
『UXデザインの法則(原題:"Laws of UX")』はそのタイトルからして基本書たりえたいという野望をもって書かれた書籍です。その内容を少し紹介します。
こんなことがわかります
「なぜそうしたの?」の視線に常にさらされている官僚の意思決定のように、わたしたちのこころの働きは前例主義です。これを紹介するのが第1章「ヤコブの法則:ユーザーは他のサイトで多くの時間を費やしているので、あなたのサイトにもそれらと同じ挙動をするように期待している」。なぜ多くのサービスは、個性的ではなく同じような姿をしているのでしょうか。その答えがヤコブの法則です。
車のシートコントローラも、慣れ親しんだシートのかたちと似ている方が使いやすい(本書 p.23)
なぜかくも世の中は複雑なのに、わたしたちの選択肢は、松竹梅で選ばれるうな重のように限られているのでしょうか。それがたとえ国家の重大な意思決定であったとしても、いや重要な意思決定だからこそ、選択肢はすくなくあらねばなりません。これを紹介するのが第3章「ヒックの法則:意思決定にかかる時間は、とりうる選択肢の数と複雑さえ決まる」。
おばあちゃん向けユーザビリティ:そんなにボタンがあっても使いこなせない(p.44)
よくできたサービスは、ひとに迷惑をかけず期待を超え続けるプロフェッショナルのようにふるまいます。その基本原理が第5章「ポステルの法則:出力は厳密に、入力には寛容に」。わたしたちが普段使っているブラウザのパーサのひたむきな努力こそ、わたしたちの生き様の師匠です。よくできたシステムも仕事人も、意外とシンプルな行動規範に導かれているのかもしれません。
上述のように、ものごとはどんどんとシンプルになっていますし、そうありたいものです。ですが、メールにはいつまでも、宛先があり、差出人があるのです。宛先と差出人がなければ、それはもはやメールではありません(しかし顧客がメールを求めているのかは別の問題ですが..)。同じように、同意がなければ、それはもはやコミュニケーションではありません。流し読みされるプライバシーポリシーと利用規約をボタンの上において同意したことにするのが最善だとおもっているサービス設計者はおそらくどこもいないでしょう。しかし、それなくしては、コミュニケーションとしてのサービスは成立しないのです。複雑な表皮をはがし続けて、その挙げ句残るものは何でしょうか。玉ねぎの皮を向いていたら、いつのまにかそこにはなにも残らなくなっていた。このようになくせない複雑性を紹介するのが第9章「テスラーの法則:どんなシステムにも、それ以上減らすことのできない複雑さがある」です。
どんなにシンプルになっても、メールには宛先と差出人が必要だ(p.108)
『UXデザインの法則』の先にあるもの
すこしプライバシーポリシーと利用規約のところで書きましたが、現在のサービスと利用者の関係が最善であると考えているサービス設計者はどこにもいないでしょう。理想論をいえば、サービス設計者とサービス利用者が同じだけの情報と経験に裏付けられた知恵を対等に持ち合わせていえば、無理くり文字の羅列で理解し合ったことにする必要などどこにもなく、余計な専門家に払うコストなども不必要になります。しかし人間はまったくすべてのふるまいに自覚的ではなく、原理の存在にすらおぼろげにしか気づいていないのです。
しかし、事業者と消費者間における情報の非対称性の明らかな不動産広告の歴史がそうであったように、経験回数の少ない商材であればあるほど、対等な知恵は望むべくもなく、そこには法規制やガイドライン、自主規制といった制度設計を伴うことになります。しかし、自覚的ではない自らのふるまいをいかに規制や文章で制御できるというのでしょうか。
今日、手段は規制だけはありません。強制、市場原理、社会的規範、アーキテクチャ。さまざまな方法をうまく組み合わせて、両者の認識齟齬を埋めるのがデザインの役割です。
そしてデザインはデザイナーだけのものではありません。一方で、ユーザーにすべての責任を押し付けたいわけでもありません。ユーザーとサービスの提供者、そしてそれをとりまく人々が共通見解の上に立つ。そのために、いまなにができるのか。それの答えの1つが本書の翻訳でした。デザイン論は、『日々の政治』などの優れた書籍に譲りますが、本書が少しでも認識齟齬を埋めることに繋がる知恵を提供することにつながっていれば、と思います。まずは目を養い、気づくことがデザインの第一歩だと考えます。
とはいえ、すべての人が本書を手に取ることは難しいでしょう。ただ、いわゆるデザイナーと呼ばれる人たちの範囲を超え、プロダクトマネジャー、エンジニア、事業責任者といったサービスに携わる人、もっと言えば、その関わり方がサービスのあり方に影響を及ぼす政策立案者やメディア関係者、法務法曹のようなプロフェッショナルたちにも役立つことだと思います。
改めてデザインは永遠平和のための意思決定とともにあることを大袈裟に噛み締めつつ、出版に携わったすべての方(翻訳チームや編集者、査読者、帯を書いてくれた深津さん、装丁さん、そしてなにより原著者)に感謝を感じつつ、筆を置きたいと思います。『UXデザインの法則』をどうぞよろしくお願いいたします。
kindle版はありません。DRMフリーの電子データ(PDF)はオライリー・ジャパンから購入できます。
本稿は、個人としての意見であり、所属する組織を代表するものではありません。