桜 3/4
不便であるが故の利益。一見背反で水と油にも思えるこの二者は表裏一体とでもいえよう。ここには四つの物が存在するといえる。
「便利益」「便利害」「不便益」「不便害」
便利であるが故に人をだめにするもの、スマホ中毒のことを考えると、これは便利害だろうか。でも、自分の人には言えないことを自由に晒せられる唯一のものだとする人からすると便利益以外の何物でもなかろう。これでおそらくは初見の人でも、不便益以外が何かは大体理解したと思うし、感じ方には個人の境遇の違いがあるということも分かったと思う。
不便益とは例えば幼稚園のドアが少し重めに作ってあったり公園の地面が敢えて凸凹になっていたりすることなどである。それぞれ、最後まで行動する力や、人の体温調節を気遣かって行動できる感覚などを鍛える目的、自由度を高め、創造的な思考になったり、平衡感覚を鍛えたり、という狙いがある。
時にただの遠回り、無駄足と思えることも利益となることもある。これは考え方に依ったらではない。実に純粋な利益なのである。
何より、困難のない日常は面白くない。勿論、練りに練った思い入れのある企画を会議で眼中にも入れられなかったり、完全に却下されたりすることは正直辟易するし楽しくはない。
でも、どうだろうか。ずっとうまくいくのは気持ちのいいことなのか、それは快感を伴うのか。自分はそうは思はない。いつまでも、少年野球やフットサルクラブに所属していても、面白くないのと同じ。自分の所属する部活やクラブのスポーツを体育の授業でやるときに妙に冷めてしまうあれのこと
どうなのかな。面白くないと思う。きっと。
思うようにならないということは、不便だ。便利とは、「都合がよく、役に立ること」であるから。
でも、いつの誰にとってどのように都合がよく役に立つものが「便利」なのか、今は不便でも何時かの便利、そのための物が、というよりもそれ自身が、不便益である。
いったん遠回りでも、その方が、はるかに良い結果を得られるのではなかろうか。
そして、もし、感覚が一致してしまうと起こりうると自分の考えることを紹介しよう。それでは。