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LGBTQに対する”ある時”に考えたこと

 机の周りを片付けしていると、過去に書いたいろいろなメモが出てきた。

 中には、今は違うように考えているけど、と思うこともあれば、今も同じ思いで、かなり本質を突いているではないかと思わせられるものもある。

 A5のサイズの紙にびっしりと書いたメモを今回紹介する。(全文引用)


 この前街頭演説の前口上を聞いて(耳に入って)その一部分がずっと心に残っている。

 「『LGBTQ』で苦しんでいる人」っていう言葉が聞こえてきた。

 自分は所謂ストレートだと思っている。自分の心としての性(gender)と心の性(sex)は一致しているし、自分に持っていない体の特徴がある人のことを好きになる。

 だから、現時点では、残酷非道、自己至上主義者みたいなことを言うが、LGBTQの人たちの気持ちはわからない。本当にわからない。ならば想像を、と言われても限界があると知っている。

 でも、無神経な態度をとることは違う。なら先程のは何なのか、無神経で乱暴にならないように、自分の思う大切なこと、勝手に想像して一方的に分かってあげた優越感のようなものに浸って悠々自適に自知の範疇にないところで自ら傷つけるよりは一見冷淡でも「分からない。分かりえない。だけど、だから、」と喘ぐ方が少なからず一助になると思う。

 先にストレートと言ったがLGBTQの境界をどこにあるかによる。sexとして同性の相手に強く惹かれることがないかと言われたら否定できない。元来そうだったが、最近読んだ本がそれを加速させた。そう思うと、皆LGBTQとストレートの白以上黒以下の部分にいて、割合の問題なのかもしれない。

 分からない。えれども彼らは本当に「苦しんでいる」のだろうか。

 演説をする人は当事者らしいが、口上を述べた人はどうだろう。原稿を作った人はどうだろう。

 知るすべもない。でも自分は、十分に楽しんでいると外側から見て思う人もたくさん知っている。ひとくくりに苦しいのかな

 イラついていようがなかろうが、人からイラついてる?って聞かれたら、いい気がしないように、その人のことが好きだろうがなかろうが、○○って△△のこと好きやろ?って聞かれたら嘲られたような不快感に覆われるのと同じではないのか。

 苦しんでいるという言葉は適か不適か。そもそもこの考えは破綻しているのか。

 分からない

 ただ、ストレートに”近しい人”として、完全理解は今の自分には不能と知っていても、だからこそ、考え直す必要があるのだろう。

 自分たちは何げなく生きている。忙殺の中にLGBTQを頭のどっかにおいているストレートな人は、正直言ないのではないか。議論の下にあれば、あろうがなかろうが同等に見ていないか。

 分からない

 ただ自分に、あの人に、これを読んでくれら人に聞きたい。

 苦しいのか、それとも、苦しめているのか。

 Which is "true," in an awkward sutuation or making them there?

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