見出し画像

シンクロニシティ~@aiiroのこと another story~

 まず、上の記事を読んでください。
 個人的に凄いいいなと思って読んでいます。面白すぎるあまりに、そちら側の沼にはまらないようにお願いします。一旦こっちに戻ってきてください。その後なら、もう画面に穴が開くぐらいに読んでください。
 将来、自分は桜坂さんを初期から知ってるよって言えます。(まあ、そのために応援しているわけじゃないけれど。)では、いってらっしゃい!

 戻ってこられましたか?
 では、本編に行かせてもらいます。っとその前に少し拙い自分から桜坂さんへの”ラブレター”を書きますね。(読みたくない人は飛ばしちゃってくれて結構です。)

 今回、特に上に紹介した記事に惹かれて、これに関連して記事を書きたい!!って思っちゃって、そのままコメント欄に、その思いを伝えました。正直、送ったその瞬間はもう衝動に押されて、ほぼ何も考えることがなく送っていました。でも後から考えるとフラれるイメージしか出てこなくて、何も言われないんじゃないかとか、優しくでも要するに却下の意を伝えられるんじゃないかとか、もうマイナスのイメージがどんどん出てきてしまって、正直noteを見るのが怖かった。でも今こうやって書けているように結果はまさかまさかの快諾。正直びっくりして小さくガッツポーズしてました。
 思えば最初もそうでした。あなたの記事をどういう経緯か巡り合わせかで見つけて、面白そうな人がいるなと思い軽い気持ちでそのnoteを読んでみてその面白さにちょっと何かしら持っていかれるものがあって、気づいたらその記事にスキしていて、もっと読みたいからとフォローのボタンをポチっとしてました。でも、自分がいいなと思った貴方のフォロワーは定かではないが当時は80人ほどだっただろうか。自分にはフォロワーは当時二人か三人。正直比になっていない。自分は一人一人の価値が高いけれども、沢山いればいるほどどれだけ頑張っても、フォロワーの一人一人の価値は下がってしまうことは否めないと思う。だから、沢山いるフォロワーの中の一人として埋もれたくなかった。だからだろうか、よくコメントをしていた。実際にはコメントしたい、したくないではなく、してしまったっていう表現のほうが確実だけど…
 何回かコメントをしていると、「いつもありがとうごさいます。」って言葉をもらったときはあったかいものを感じた。これで、自分は沢山の中の一人ではなく@aiiroっていう人として認識されるということだから。
 その時もずっと振り返ってほしかった人がこっちを見てくれた気がして、それはそれはで嬉しかったんです。
 今回「いいよ」って言って貰って二人だけの何かが芽生えた感じが勝手にしました。
 書いてると、字ずらを読んだら何ちゅう気持ち悪いこと書いてんやないかって思ったけど、一方的な"あい"を伝えたいのです。
 まだ書き足りません。また何時か。

それでは、本当に本題へ

人生もこれと同じではないだろうか。

何かをすればするほど、対比として「何にもしないこと」はより深みを増していく。

桜坂郎|未来の芥川賞作家 「何もしないこと」のために働く より

 ここに、ものすごく惹かれた。

 ここでのこれとは、風神と雷神との対比で、切り裂くような雷神と包み込むような風神とのこと。

 この前スタンダールの「恋愛論」よんだ。というのも、授業で扱った教材にその名前こそ出なかったが、内容の紹介があったから。そこで、コノヒトナニイッテンノ?ってなったり、自由なこと言ってんじゃねーよ。って思わされたところもあった。それで、自分もこの記事を読んでいる人からしたらのスタンダールになってみようと思う。(自分が理解できなかったのは、自分の経験不足からくるのもかもしれない。)

 人に告白するときって人はなんていうのだろう。
きっとスタンダードなのは「ずっと好きでした。付き合ってください!」的なのだと思う。何とはなしに、体育祭とかの後にそんな感じのものをする印象がある。(自分はするのもやられるのも嫌。でも、その可能性がないから大丈夫。)ここで注意したいのが「好き」という言葉。
 思うにこの言葉は恋人同士の間でも聞く気がする。「○○って私のこと好き?」、「うん、好きだよ。」っ的な。

 でも、自分の中にはある法則というか、考えがある。

 それは、結局すべてのことを足し合わせるとその合計は「0」に収束するというもの。
 これは、とても美しい法則であるが、同時に残酷で、求めたくない法則でもある。

 というのも、これにのっとる限り、自分がどれだけその人のことを「好き」と思えどその反対のもの、あえて言うならば「嫌い」だろうか、が増幅することを意味する。こんなことってどうなのかな。今まさにそういう人がいて、熱中の渦に中にある人にとってはとんだところから、冷や水をかけられたようなもんだと思う。だから、「好き」と人に対して言うことを自分は非常に忌み嫌う。
 そして、そんな言葉を告白の場に選んだ人とは、きっと暫く後に綻び、歪み、終焉を迎えることが目に見え見えであるが故に、きっとその人は自分のことが「好き」な人なんだなのままだろう。
 話を戻すが、だから「好き」になればなるほどその人を憎むなんて言う矛盾が起きるのだろう。この法則を見つけた原点はこれなのだが。何とかしてその不思議を説明したいという思いがどうしてもそうさせた。そして、実際にこのことを知ったとき、その他の(つまり恋愛以外でも)事象に対しても説明の根拠となりうるこれを手にした時の戦慄は中々体から離れてくれない。

 先に人に「好き」と言うことは忌み嫌うといったものの、ものに対してはいいと思う。そこには、一縷の「嫌い」存在してもいいと思う。ちょっとこここうした方が自分には刺さるんだけどとか、何でこのチョイスに至ったんだろうって思ってしまうことは多々あると思う。それは、自分が生み出したものにも、他人が生み出したものにも。勿論、社会として秀作と認められているものにしても。だって、一人一人の感性の問題であるから自分にそれに「嫌い」を持ってはいけないと強制する権力はないから。
 だから、自分は人に対しては、愛するって方が適切なのかなっと思う。これに関しては、逆感情が存在してもいいと思う。「愛」の対義語は「無関心」っていうことを書いている文章は数多あるのでそれはそうとする。説得力のある話であるし、分かりやすく、考えとして人口に膾炙している。だから、特別説明も要らないし、自明とする。
 その人のことを思っている人も、どれだけ思っていても、そのことを考えていない時間は少しでもあるはずだ。だから、逆感情は存在していいし、存在する筈だ。

 それに、一緒にいたいってこともありだと思う。誰にでも一人でいたいと思うときはあると思う。その時は思う人でも、家族でも、関係ないと思う。

 だから、対比って凄い大切だしいつも意識するべきだと思う。そんな中で見つけたあの記事にすごく感銘を受けた。

 因みに「”あい”」と書いたのは相手がいないかもしれない。(”て”がない)だったり、角がないだったりという理由から。

 とにもかくにも、桜坂さんには本当にありがとう。(自分の中では親しみと尊敬を受けて”桜さん”って呼んでいます。)桜さん素敵な文章を沢山ありがとう。これからもよろしくお願いします。”あい”してます。

 あと、桜さんが自分の小さな呟きに反応してくださって嬉しかったです。本当にあなたって人は…

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集