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「聞く技術 聞いてもらう技術」を読んで起こった思考転換 ~戸惑う心を罰さない~

こんにちは、aicafeです。
40代、人生時計で14:00頃に差し掛かったところです。
これからの人生の午後の時間の過ごし方を模索中です。

友人に勧められて、東畑 開人さんの「聞く技術 聞いてもらう技術」を読みました。


「聞く」と「聴く」の違い

まず目から鱗が落ちたのは、この本の最初に語られる、「聞く」「聴く」についての論考です。

わたしは、この本を読むまでは、「傾聴」という言葉もあるとおり、「聴く」は耳を傾ける熱心なイメージがあり、「聞く」より難しく、尊い、立派なこと、のように思っていました。
対して「聞く」は、ただ耳に入ってくる状態のことで、日常的で、当たり前のことで、簡単なことだと思っていました。

しかし筆者は、「聴く」よりも「聞く」のほうが難しい、と語ります。

受動的なのが「聞く」、能動的なのが「聴く」。
あるいは、心理士としての僕なりに定義するならば、「聞く」は語られていることを言葉通りに受け止めること、「聴く」は語られていることの裏にある気持ちに触れること。
(中略)
心の奥底に触れるよりも、懸命に訴えられていることをそのまま受け取るほうがずっと難しい。

「聞く技術 聞いてもらう技術」まえがき より

筆者は、新聞紙上での評論の連載の執筆を通じて、社会全体がマクロレベルでもミクロレベルでも「聞く」ことが不全状態に陥っていることに気づき、「聞く」の回復を試みようと、この本を書くに至ったことを説明しています。

なるほど。
「聴く」は、相手の真意を自分のバイアスで認知しようとする行為だけど、「聞く」は相手の認知をそのまま受け取ること
これはたしかに「聞く」ほうが難しいかもしれない。
考えを改めて読み進めていきました。

この本の面白い点二つ。「聞いてもらう技術」と「小手先編」

この本の面白い観点は二つあります。
一つは、一般にありそうな「聞く技術」だけでなく、「聞いてもらう技術」が書かれていることです。
もう一つは、それぞれの技術に、「小手先編」があることです。

「聞いてもらう」にも「技術」がある
という考え方には、再び目から鱗でした。

しかし考えてみますと、たしかに、
耳を塞いで何も「聞く」ことができない時って、
誰からも必要とされていないように感じて周囲を敵とみなしている時
(本書では「悪魔化」と表現される)で、
それは誰よりも「聞いてもらう」必要がある時かもしれません。
「聞く」時よりも「聞いてもらう」時には切迫感があり、
技術を必要としていると言えます。

「聞いてもらう技術」の小手先編は、次のとおりです。
(ウェブにも書かれているので、ここで出してもネタバレしないと思います)

日常編
1 隣の席に座ろう
2 トイレは一緒に
3 一緒に帰ろう
4 ZOOMで最後まで残ろう
5 たき火を囲もう
6 単純作業を一緒にしよう
7 悪口を言ってみよう
緊急事態編
8 早めにまわりに言っておこう
9 ワケありげな顔をしよう
10 トイレに頻繁に行こう
11 薬を飲み、健康診断の話をしよう
12 黒いマスクをしてみよう
13 遅刻して、締め切りを破ろう

「聞く技術 聞いてもらう技術」 聞いてもらう技術 小手先編 より

これを一読した時は、
えー、こういう人が周りに居たらちょっと面倒だな
と思いました。

でも、筆者は、
これで迷惑がられてもウザがられても
「まあでも「いいじゃないか」とも思うんですね。」
と書きます。
「そういう体験が、今度は自分が誰かの助けになろう
思わせてくれるわけです。」

この部分を読んで、はたと、思い至りました。
《自分は、他人がこういう行為をしたら面倒だと感じている》
《もし自分がこういう行為をしたら、自分は駄目な奴だと責めるだろう》
とても他罰的自罰的な認知です。
でも、この他罰的で自罰的なわたしの認知は、
この本を読み進めることで緩むことにもなりました。

わたしに起こった思考転換

きっかけは、本書で紹介されていた、精神分析家で小児科医のウィニコットの「環境としての母親」「対象としての母親」という考え方です。
「聞く」を考えるうえで役立つアイディアとして取り上げられていました。

「環境としての母親」は普段は気づかれず、
失敗した時にだけ気づかれ「対象としての母親」として表れる。

よい子育てとは、成功し続ける「環境としての母親」ではなく、
時々失敗してそれを挽回しようとする
「ほどよい母親 good enough mother」によってもたらされる。

この考え方には、ストレートに、かなりわたしを救いました。
わたしは「環境としての母親」を目指しがちでしたが、
ほどよい程度がいいんだ。それが子の成長の萌芽となることもあるんだ」と気が楽になりました。

この気持ちで「聞いてもらう技術 小手先編」を今一度読み返しました。
すると、
「そうか。なにも完璧な「環境としての隣人」でなくていいんだ。
ちょっとした普段と異なる行動の表れに
「どうした?」と声をかけられる自分でいたい。
自分がそういう行動をしたとして、
誰かの「対象としての隣人」となってもいいんだ。」
と素直に思えました。

筆者は、聞いてもらうために必要なことを、
「賢い頭ではなく、戸惑う心」
と書いています。
混乱したり、ジタバタした心の状態に素直にしたがって、
それを周囲に漏らすことを恐れない
というようなことなのかなと、解釈しています。
わたしは、それを他人にも自分にも許していなかったけれど、
許してよいんだ、という思考転換が起こりました。
(筆者は決してこうした思考転換のためにウィニコットの論を用いているわけではないのですが)

「聞く」と「聞いてもらう」が、環のように循環していることは、この本を最後まで読むとよく理解できます。
他人にも、自分にも「戸惑う心」を許すことで、
誰かの話を「聞く」ことができるようになるかもしれない。
そう思うと、心がスーッと溶けるような感覚になった、読書体験でした。

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