[ベッシー・ヘッド] 出版するための翻訳作業は孤独だがようやく次の段階へ
南アフリカ生まれでボツワナに亡命した作家ベッシー・ヘッドというひとを知ってから四半世紀以上。
彼女の長編小説の一冊を日本語に翻訳して出版したいと具体的に考え始めたのは、それから少し後だったかもしれない。2004年には、ある翻訳スクールで文芸翻訳基礎コースを受けているのだから、少なくとも足掛け20年は経っている。
何度も数えきれないくらい翻訳をやり直し、自分でも信じられないほど人生の時間と労力を割いてきたのであるが、とうとう昨年この本を商業出版するために雨雲出版を立ち上げた。
どこかの出版社に合わせるのではなく、自分でプロフェショナルな人々を探してチームを組んでやりたかったのだ。
ただ、翻訳出版するにあたりいくつもの悩みどころはあるが、その中でもひときわ重大な事項が翻訳校閲についてである。
海外のベッシー・ヘッド研究者とのつながりはあるので、作家本人がずいぶん前に亡くなっていても不明点を確認することはできる。
必ずしも作家本人の意見ではなく想像の範囲になるかもしれないが、人生かけてベッシー・ヘッド研究をしているひとたちの見立てはそうそう間違っていることはないだろう。
だが、1960年代の南アフリカやボツワナの背景を深く理解し、それを日本の一般の読者に理解してもらうように届ける、ひいては感動してもらえるよう届けるのは、一筋縄ではいかない。
どのような日本語にするのか。当たり前だが、これは英語の原文との照らし合わせで見ていく必要がある。単純に置き換えればよいものではもちろんない。
わたし自身、翻訳の専門家ではないというのは言い訳になってしまうが、少なくともこの原文と訳文を穴が開くほど幾度も見返している自分には、見えなくなってしまっているものが多いことは容易に想像できた。
だからこそ、アフリカの知見をきちんと持ちつつ文学的センスのあるひとに、原文と訳文を比較しながら翻訳校閲をしてもらうことがどうしても不可欠だったのだ。
アフリカ文学の研究者に尋ねたり、アフリカ研究者に尋ねたりとあれこれやりながら、その翻訳校閲の仕事ができるひとを探していた。
だが、本一冊分の作業量となるとなかなかに難しい。
しかも、良く知らないひとにいきなり頼む仕事としてはヘビーなように思う。
そんな中、日々をすごしていたらあるときふと自分の中にアイディアが降ってきた。
あの方にお願いすればいいのではないか。
15年か16年ほど前に国際協力のお仕事でご一緒した方で、仕事で非常にお世話になっていたのだが、その職場を卒業して十数年が経った現在でも、ときどきお食事をご一緒する程度のお付き合いだが、相変わらず気にかけてくださる方がいる。
仕事の面だけでなく、わたしにとってとても大切なベリーダンスのショーにも来てくださるし、アフリカンクラフトショップのRupurara Moonのギャラリー展にも、さらには最近だと雨雲出版が初出店した文学フリマにも来てくださった。
わたしの書いた本はすべて読み、迅速で的確なコメントもすぐ送ってくださる。
信じられないほどシャープな方だが、現在では長年の国際協力のお仕事をリタイアされ、その後十年ほど大学で教えていたが、それもまもなく終了するとのこと。
アフリカでの長年の経験もあり深い知見をお持ちで、しかも芸術的センスもある。
こんなパーフェクトなタイミングのパーフェクトな方が、他にいらっしゃるでしょうか。
まさに灯台下暗しである。
何故、彼に頼むことをずっと思いつかなかったのか、不思議なくらいだ。
思いついたらいてもたってもいられなくなり、メールをしたら秒速の返信で快く引き受けてくださることになった。
二十年以上逡巡していた悩みが、秒で解決した(方向性が見えた)瞬間であった。
そのような経緯で、先日久しぶりにお目にかかり、紙で打ち出したベッシー・ヘッドの小説の英文の原文と、わたしの翻訳原稿をお渡しした。
さっそくメールであれこれと厳しくシャープなご指摘をいただく。
翻訳は孤独な作業かもしれないけれど、こうして孤独ではなくなることもあるのだ。
出版する小説は本当に素晴らしく美しい作品だ。
わたしの周囲のひとはもちろん、ボツワナのベッシー・ヘッド関係者も心待ちにしてくれている。
人生の大切なミッションのひとつとして、この作品のクオリティを上げ、日本語読者の心と人生にお届けしたい。
そう願いながら、素晴らしい人生のめぐりあわせに心から感謝しつつ、日々小さく地道な作業を続けている。
エッセイ100本プロジェクト(2023年9月start)
【17/100本】