シロツメクサの微笑がえし
幸せの紫外線
幸せの尺度なんて人それぞれなんだな。あいの風に揺られるシロツメクサを見ながら、そう思った。
私がまだ無邪気な笑顔を忘れていなかった幼女時代。近所の公園で母がシロツメクサでアクセサリーを作る手解きをしてくれた。そんな懐い出に浸りながら、シロツメクサを見つめる。どんなに紫外線を浴びていようとも、シロツメクサたちは黒一点の染みもない喜色満面な表情を魅せてくれる。そよそよと揺られているのが、その幸せのシグナルのようだ。
四半世紀を経た私の心の内はどうであろうか。染みだらけというわけではないが、随所随所に黒点な懐い出が伺えるような気がする。大学卒業以降は歌舞伎町という夜の市井に魅了され、青春を謳歌した。それと同時に、瞬く間にアングラな人格が形成されていった。アングラな人格であるが故に敬遠されたこともあるが、アングラな市井に入り浸らなければ気付けないこともたくさんあった。そんな、「アングラな価値観」という染みは私の人生最大の勲章でもあるのだ。
結婚をしなかったら女として価値がない?
子どもを産まなかったら女として失格?
夜の市井の従事者であることが、そんなにいけないこと?
再びシロツメクサの群衆を見渡し、そう思ってしまった。アラサーにもなり、子どもを全く欲しいと思わない、自分のその心がどうかしてるのかと考えずにはいられなかった。「アラサーの女であれば、結婚してこうあるべき」というようなステレオタイプの波に揉まれ、時には自己憐憫と自己欺瞞のループを止められなくなってしまう。ステレオタイプに従わないことが、悪いわけではないというのは重々承知だ。
散歩と思考の休憩を兼ね、そっとしゃがみ込む。シロツメクサの群衆の中に1つの五ツ葉のクローバーを見つけた。三ツ葉でも四ツ葉でもない。ただ1つ、自分の存在価値を確かめるように誇らしげに咲いていた。幼女時代と青春時代の表裏一体な儚い私の心を慰めるかのように、微笑みがえしをされているようだった。そう、幸せの尺度は人それぞれなんだなと。誰かと同じである必要なんて、どこにもない。