無駄な時間は無駄か
私はアマチュアでゲーム制作をしている。
先日、とある構想を練っていたら、手詰まりになった。
デザイナーさんに相談してみたところ、私のやり方そのものに、根本的な問題があると指摘された。
きちんと順序を踏んでおらず、非効率で、はっきり言って時間の無駄だと。
どういう時に手詰まりになったか?
作品のテーマと設定を考えた後、物語(ストーリー)がすぐに思い浮かばなかったのだ。
そういう場合、私は決まって、まず頭の中にある作品のイメージを形にしてみる。具体的には、登場人物や道具の絵を描いてみたり、イメージに合う風景写真を探したりして、視覚的なアウトプットを試みるわけだ。それをまた構想を練る材料にする。
デザイナーさんが説いたのは、理屈、いわゆる文字ベースでの型(フォーマット)どおりに考えることの重要さだった。
そうすることの利点として、後でぶれるのを防ぎ、効率的に創作を進めることができる。
さもないと、作品にまとまりがなくなる恐れがあり、完成までに余計に時間がかかると言うのだ。
その人の指摘も、一理あるとは思う。
しかし創作において、「効率」という言葉が出てくるのが、どうにもしっくりこなかった。
一晩頭を休ませてみても、やはりしっくりこない。
そこで、だいぶ前に買った、一冊の本を思い出した。
浅生鴨さんの著書「だから僕は、ググらない。」だ。noteのクリエイターもされている方で、独自の仕事術を紹介している。
87ページを開いてみる。
すると、企画の元になるフォーマットと、アイディアを膨らませるための妄想は、「相性が悪い」とのこと。
もちろんフォーマットを無視していいわけではない。
かといって、インスピレーションを殺していいわけでもない。
理屈と感覚。どうやってすり合わせたら良いだろうか?
実験として、ゲームの企画書の作り方を変えてみた。
今まで私が書いてきた企画書というのは、理屈と感覚の比率を、およそ3対7の割合にしていた。チームワークで進めるうえで、仲間と共有する必要があるため、感覚を理屈に変換するように作成していた。
その比率を逆転させ、理屈と感覚を7対3にし、企画書を作ってみた。
設定、舞台、物語、ゲームシステムなどを、細かく指定する。インスピレーションは導入部だけ頼り、他は極力排除する。市販のゲームシナリオ入門書に書かれたフォーマットに、できるだけのっとる。
そして、それを仲間に読んでもらう。いつも明快な感想をくれる、良識のある相手だ。
読んでもらったうえで、今までの企画書と比較し、完成度に明らかな差異があるかを訊いた。これで完成度が上がったのなら、私なりのやり方が間違っていたことになる。
仲間の答えは「まだわかりません」。
なんとも歯切れが悪かった。
浅生さんは「じぶんフォーマット」を、いくつか用意しているそうだ。
クリエイティブな業界にあふれている、四角四面なフォーマットは、人を選ぶ。
自分に合ったやり方を考え、じぶんフォーマットという形にして備える。それは、妄想が好きで、あやふやな感覚を理由もなく大事にしている私にとって、今後必要な武器なのかもしれない。
そんな気づきを得られた、有意義な時間だった。
「無駄こそが、発想の原点なのだ。」
浅生さんの著書を開いてすぐ書かれている言葉に、深くうなずいてしまう。
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