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深く掴む音色
去年(2023年)の晩夏の頃。
音楽仲間の大先輩が催された弾き語りの会に誘われ、少人数でのラウンジ的な場所で催された歌会に参加した時のこと。
大先輩の御知り合いの方も参加されていて、その方はクラシック・ギターを弾いていらっしゃるとか。
そして会を通じて初めてその方の演奏でクラシック・ギターの音色を目の当たりにした。
自分達のように普段その演奏に馴染みのない人間でも分かりやすいように演奏内容を配慮され、定番の「禁じられた遊び」やその年に亡くなられた坂本龍一氏の「戦場のメリークリスマス」などを弾かれた。
初めて直接耳にするクラシック・ギターの音色と演奏…。
クラシック・ギターの弦はアコースティック・ギターやエレキ・ギターと違い、一般的にナイロン弦を使用する。
ちなみに前述のアコギやエレキはスチール弦を使う。
ナイロン弦は押さえてみると柔らかく、この柔らかな感触が一つの特徴であり、温もりのある音色や優しい音色を形成する要因でもある。
そしてその方の演奏もまた温もりのあるものであり、クラシック・ギター特有の優しい響きが部屋の中を包み込んだ。
一音、一音を丁寧に紡ぎ出し慈しむかのような眼差しでギターを見つめ、繊細なタッチで運指を運ぶその姿は、一つの演奏家としてのプリンシプルを感じさせる振る舞いであった。
クラシック・ギターと演奏家の饗宴はオーセンティックな温もりを与える一方で、屹立とした格調高き隙のなさもその音色に孕んでいる。
聴く者を喜ばせ、そして良い意味で姿勢を正してくれるかのような素敵な世界感だった。
あくまでもプライベートな空間での演奏会だったので、あくまでも私見だ。
でもその日の経験のお陰でクラシック・ギターの魅力に触れたので、コンサートなどでその響きを聴いてみたらいかなるほどの深い余韻と感慨に耽れるのだろうと感じたりする。
本当に貴重な経験だった。
ちなみにその日の歌会は昼間に行われた。
舞台興行などで昼間に行われる公演の事を「マチネ」という。
対して夜の公演の事を「ソワレ」という。
語源はフランス語で
「マチネ=午前・朝」
「ソワレ=夕方・夜」
だそうだ。
大仰な言い方で、不興を買ってしまうかもしれないがその歌会もマチネと呼んでも良いのかな。
どうかご容赦下さい((+_+))
私的な事で記事をスタートしたが、今回本題で書きたいのは読書感想文。
そして自分が書き記した「クラシック・ギター」や、「マチネ」などが重要なキーワードになってくる本の感想だ。
「マチネの終わりに」 平野 啓一郎著
物語はクラシック・ギタリストの蒔野聡史と国際的なジャーナリスト、小峰洋子の深く心を捉える愛と、二人の間に流れる時間という名のエッセンスが醸造する人間としての物語が主軸となって展開していく。
2006年、蒔野のサントリーホールでのコンサートで、音楽会社ジュピターの担当者で是永慶子の連れ合いで面会した洋子との出会いからこの物語は展開していく。
男女の愛。
一言に言ってしまえばそうなのかもしれないが、その出会いによってもたらされた「愛」は決して一言では言い表されない多面的な部分を兼ね備えている。
その運命的な出会いによって、その後の人生は幾重にも二人にその出会いそのものが心の淵を掴んでいく事になる。
人間は感情をいくつも持つ、複雑な内面を持っている。
なので誰一人として一言でくくれないほどの多面的な側面を併せている。
多分人々はそれを分かり易くするために、一言で「あの人は…」っとくくりたくなる部分もあるのだろう。
その複雑な感情は何も自分の内面だけで構成されていくわけでなく、外部的因子にも影響を受ける部分でもある。
まあ、そうして人々は個性を育み、社会性を身に着け、成長してゆくのであろうけど…。
なので二人が出会った年齢が蒔野が38歳、洋子が40歳というのも一つの物語を構築していくうえでも重要な要素なのだと感じてしまう。
クラシック・ギターで賞賛を浴び、成長していき色々な経験をしていく中で歓喜の瞬間だけではない、様々な苦悩を抱える蒔野。
そしてジャーナリストとして物事に誠実な部分を持ち、自身の父や母の関係性など洋子の感受性に多大な影響を与えたであろう生い立ちなどがこの出会いと上手く絡み合い、この上ない時間軸を伴った物語を形成していくのである。
前述した通り二人は様々な経験を積み重ねた、成熟した一人の大人達だ。
そこには当然のことながら積み重ねてきた自分達の世界があり、それに関わってくる人々との交流もある。
その交流が、いかにこの愛の行方の複雑さを演出しているかも一つの魅力ともいえよう。
それなりに年月を重ねれば色々な経験を積み、そして色々な人々との交流を持つ。
人は自分が思っている自分と、他人から見られているその人の「人となり」というものがある。
多分誰もそうかと思われるが、自分と他人からの視点というものは少なからずの❝乖離❞みたいなものがあるんじゃなかろうか。
まあ、その部分を埋めようと努力したり受け流したりする感情の側面があると思うが。
二人の出会いによって影響を受けるのは当事者だけではない。
二人に関わっている人間模様にも波紋のように広がっていくのである。
一滴の水が水面に共鳴していくかのように…。
二人の出会いに、積み重ねてきたきた二人の人間としての魅力、そして二人の職業人としての才が、物語としての楽譜に様々な音符を刻んでいく。
その二人の調べに関わっていく人々が、違う楽器の音を加えたり、休符的な役割を果たしたり、時には「ダカーポ」のような役目を果たしていく…。
そして聴衆のように固唾を飲み、その物語に耳を澄ませているのである。
美しいばかりではない、現実的な事象も大いに二人に影響を与えていく。
物語は2006年からスタートしている。
なので詳しくは書かないが、この頃に起きた国際的な事が深く関わっていく。
それは洋子がジャーナリストであるという事も関連しているのであろう。
その辺の描写がリアリズムを持って、あたかも一人のジャーナリストが対峙するグローバリズムの波と向き合っている様子が克明に描かれている。
本当に一個人としての職業の激動の人生が、ある一時の時間だけではあるが、その華々しいキャリアが一筋縄ではありえない事を物語っている。
そしてまた一つの見所を生んでいく…。
洋子のジャーナリストとしての多面的な感情をはらみ、業務を遂行しているのと同時に蒔野のギタリストとしての苦悩も一つのキー・センテンスとなっている。
芸術家ではないので、その生活が果たしてどのようなものなのかというのを自分は中々想像できない部分がある。
むしろ一般人の自分から見て、その生活に羨望の感情さえ感じてしまう部分もある。
隣の芝生は青い…ってやつか。
当事者ではないのでその生活を送る人々の苦悩みたいなものを自分は知らない。
芸術活動と生活、クラシック・ギタリストとして名声を得ている蒔野にも当然のことながら苦悩は存在する。
そして自分が他人にどのように映っているかを考慮する、思慮深さも兼ね備えている。
芸術的な部分と、現実的な部分をその生活でうまく身につけていったのであろう。
このバランス感覚が蒔野の人格形成の根幹をなしているのである。
そういった部分と芸術家としての苦悩が、時間と洋子との出会いによってどのような調べを奏でるのかが、また一つの魅力でもある。
小説を読み進めていると、他の小説でも感じる事があるのだが食事をするシーンというのも一つの魅力的な部分でもある。
決してそのシーンが多いわけではないが…。
映像作品とは違う、何だろう作者が選び抜いた言葉と文章によって綴られた作品は、読者の想像力を掻き立てるのには充分すぎるほどの情報量を提供するのかな。
多分、想像を掻き立てられた読者の脳裏には、その情景が我が事のように思われ、匂いやテクスチャー、味や食事のシチュエーションなどを思わすのではなかろうか。
映像や実際に目の前でみるものとは違う、文章を読むことによって生まれる世界。
そんなことを物語の一コマを読みながら感じてしまう。
その想像力を掻き立てる様々な文脈と、感情的なアプローチを携えた作品ってのが読み応えのあるものなんですかね…。
いや、全くの見当違いかもしれませんが💦
料理の描写と同時に物語は音楽、そして芸術の事が中心的なものであり、自分が好きなシーンの一つにギターを演奏している場面を上げたい。
あまりあらすじ的な事は触れず…
前述した料理の場面と同じように、かのクラシック・ギターの一音、一音が文章を通じて雄弁に脳裏に、そして自らの芯の部分、心の中にも響いてくる。
その音色はふくよかであり、人を温かく優しく包むと同時に、いとも簡単に人の心の琴線に触れるものであるか…。
冒頭で書き記したように初めて目の当たりにしたクラシック・ギターの演奏の記憶が小説の演奏シーンとシンクロする感覚もある。
全くの例え下手かもしれないが…。
その音色に込められた細かいニュアンスは一体なんなのか。
ギターのみではない、その場の全てを慈しむかのようにして奏でる演奏とギタリストの姿勢は、聴衆に何を感じ、そしてどのような思いが込められているのか。
そして人生という名のスパイスを味わい、深みを増した人間が奏でる音の一音、一音に単に音色としてではない深い多面的なニュアンスを伺い知れるものなのか…。
やはり人の人生経験というやつが、その人が醸す事に昇華され発せられるものだと思う。
なので人々の心を打ち、捉えていくのであろう。
多分。
そのような演奏技術のみならず、一人の人生という名の時間軸、そして二人の人生の一端を通してあらゆる事が絡み合って展開していく物語は、自分は素敵な作品と感じてしまう。
そして愛の余韻はクラシック・ギターの音色の如く、様々な深い感慨を心に刻ませてくれる。
人間の良い部分だけではなく、清濁併せ持った人間達の業…。
人間のあらゆる感情や、事象、そして芸術の力を巧みに描写し、一つの清々しさを感じさせてくれ、ギターを通じた芸術的な部分+報道や記者としてのリアリズムを織り込み、周囲の人々と溶け合い織り成される二人の物語。
そして最後に一つ引用を…
「人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでいる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えてるんです。変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える。過去はそれくらい繊細で、感じやすいものじゃないですか?」
蒔野 聡史のセリフより
良い価値観だと思う。
そして味わい深いセリフだと思う…。
「マチネの終わりに」
読み終えた後に深い音色が心に染み渡ってくるような気もする。
小説を読んでみて良かった。
記事を最後まで読んで頂き誠にありがとうございます!