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インテグラル理論への疑念『どうすれば世界を変えられる理論にできるか?』
インテグラル理論は、世界の多くの事象を明らかにした理論だ。
しかし、インテグラル理論にはやはり最大の課題が残されている。
発達理論やインテグラル理論の現状に対する不満や懸念は数多くありますが、個人的な実感として大切にしたいと思うのは、結局、一部の人たちが「上のほう」で何かやっているだけで、市井の生活においては全く何も変化が感じられないということです。
もっとも、1つの理論や思想にそこまで求めるのは酷かもしれませんが、少なくともその程度のことさえも出来ないのなら、インテグラル思想を「現存する最も包括的で統合的な思想」などと吹聴するのは即刻やめていただきたい。市井の生活を大きく――よくも悪くも――変えたのは、皮肉なことに、ポストモダン思想よりもヒューマンポテンシャルムーブメントよりも何よりも、インターネットの出現と浸透であり、政治的失策による長期デフレ(そして拝金主義グローバリズムによる移民問題)でしょう。
このまま進めば、次に大衆の生活を大きく変えるのも、インテグラル思想や発達理論では決してなく、技術の進展であり、さらなる経済の変化なのではないかと思います。(あるいは、軍事的ないし地球環境的な破滅)
インテグラル思想がその役割を担おうが担うまいが、カネの論理とテクノロジーの論理ばかりが我々の未来を主導していくという構造そのものに対して、異議を唱え、具体的な改革案を提示していける思想が必要であると、切に思うのです。
カネの論理とテクノロジーの論理ばかりが我々の未来を主導していくという構造そのものに対して、異議を唱え、具体的な改革案を提示していける思想こそ個人的には協力主義であると考えている。
協力主義とは、自らの幸福度を上げる以上のカネを、自己に帰属させず(そうすれば不幸になるのだから)、募金活動や投資活動、内部留保に還元し、その余ったカネで世界を良くするという主義のことである。
中でも資金の使い道は、社会貢献に繋がる投資(募金的投資)が幸福度を高めることが言及されている。
募金的投資では、『魚を与えるな、釣り方を教えよ』という価値観に則って、一度やって終わりの募金ではなく、投資によって社会貢献を果たす。
しかし、この協力主義や募金的投資も現状で言うならば、ほとんどエクスポネンシャル起業家(世界的なアントレプレナー)でのみ流行っている。
エクスポネンシャル起業家は、贅沢な暮らしをする(オレンジ)よりも、世の中をよりよく変える(ティール以降)ことが主な目的である。そうするのも当然だとは言える。
しかし、そのマインドセットの根底を説明するインテグラル理論と共に、やはり「上のほう」で何かやっているだけで、市民の生活においては全く何も変化が感じられないという根深い問題は存在している。
もちろんその額が極めて大きければ、ビルゲイツ財団のように世界に大きく貢献すると言えるだろう。
インテグラル理論の課題は、マインドセット(自分が贅沢な暮らしをするオレンジ→世界に貢献するグリーン以降)とSQを上げるに従って、エクスポネンシャル起業家などになれるポテンシャルが明らかに高まるにも関わらず、そう説明するのは『優生学』だとして、禁じ手として封印してしまっていることなのだ。
個々人の成長や発達とは、本質的に独自のものであり、その軌跡を把握するためのひとつの物差しが、発達理論が示す発達段階であるに過ぎないのである。発達論の物差しを絶対化してしまい、それだけで人間を理解しようとするのは、極端な言い方をすれば、体温や身長の記録だけでその人のことを理解しようとするような愚を犯すことでしかないのである。
既に述べてきたように、人間の垂直な成長や発達について詳細に言及できるという意味において、その意義や利点は非常に大きなものである。しかし、その活用の仕方を誤ると、この理論を容易に、人間を順番(ランク)付けするための道具に堕してしまうことにもなる。そして、最悪の場合には、「発達段階は高ければ高いほど望ましい」("the higher the better")というような優生学的な発想に道を開いてしまうことにもなる。(その結果、ハッタウ段階の低い人々を侮蔑・差別したり、あるいは、高次の発達段階に向けて効率的に成長や発達をするように他者に強制・強要したりする発想に陥ることになってしまう)。
換言すれば、発達理論とは、何らかの意図に基づいて、人間を操作するためのものとして利用されるべきものではないのである。そして、そうした意味では、発達志向型支援の文脈においては-他の対人支援と同じように-支援者には倫理的な意識が求められることになるのである。
実際ティール組織でも、
認知的にも、心理的にも、そして倫理的にも、新しい段階への移行は大変なことだ。以前には正しかったものを捨てて、新しい世界観を試す勇気が求められるからだ。(中略)これまでに経験のない意識の段階に進もうとすることは、どんなときも非常に個人的で、独特で、やや神秘的なプロセスである。そのような経験はだれかに押し付けられるものであってはならない。いくら善意によるものであっても、意識の進化の強制などできない。コーチやコンサルタントが、いくら組織のリーダーに複雑な世界観を身につけてもらいたいと願ったとしても、説得を通じて実現することなどできない。これは、厳正な事実なのだ。できることは、次の段階へ役立つ環境をつくりだすことだ。『ティール組織』p68
といいつも、
もし、だれもが強い権限を持ち、無力な者が一人もいないので権威委譲が必要ないという組織構造と行動様式を設計できたらどうなるだろう?これが、進化型組織が到達した最初の突破口だ。だれがだれに対しても権力を行使できる立場になく、しかし(逆説的ではあるが)組織全体としては、ほかの組織形態よりもはるかに強力になっているーそのような組織構造と行動様式を通じて権力の不平等という昔からの問題を乗り越えているのだ。
こうして、やはりパラダイムが高い組織の方が実際にも強いのだと、大きく取り沙汰されている。でなければ、ティール組織のフレデリック・ラルー氏やSQのダニエル・ゴールドマン氏がThinkers50に選ばれることも無かったのではないだろうか?
あくまで、その『優生学』というのはオレンジパラダイムから見たものではないだろうか?
エクスポネンシャル起業家になる方法として、インテグラル理論やSQの概念を使うことは、本当にタブー中のタブーなのだろうか?
発達段階を変えることは、本当に厳しく長いプロセスで、際限なく時間と努力が必要なものなのだろうか?そんなに時間を掛けていていいのだろうか?
こう考えた時に、一つの答えを出すことができた。
ようは、インテグラル理論は世界を大きく示すビックピクチャーであるが、生きがいほどには重要ではない。ということ、そして望めば発達段階の飛躍的な進歩は可能だということだ。
つまり、こう捉えることができる。
どのパラダイムであっても、その人の生きがいほどはインテグラル理論やSQは重要ではない。このため、その人の生きがいを否定する可能性がある場合に関しては、パラダイムを押し付けてはならないのだ。
それを押し付けることは、かえって健全な成長を阻害してしまう。
逆に言えば、生きがいがそれを望むのならば、SQを高め、究極の発達段階を目指そうとするのは間違いではない、とも言える。
そして、言語化された明確なブレイクスルーがあるので、望めばそれを達成することで、発達段階を高めることができるのだ。
こうして、インテグラル理論と発達段階というのは、どの高さの視点から世界や、生きがいを捉えているか?を示すものだと言えるだろう。
たしかに、より広い視点(高い発達段階)から見たほうが、より様々な道やルートを見つけることができる。
しかし、そもそも道を探すことは『道を進んでいるか?』『道を探す動機』ほどには重要ではない。
これは、数学から見ても明らかだ。
立方体の点から反対側の点に向かう時、直線で移動すれば3aかかるのに対し、斜めに移動できれば√3aで済む。
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しかし逆に言えば、いくら合成しても平方根分は進まないといけない、とも言えるのだ。
これと同じで、生きがいがそもそも進む理由であるとすれば、発達段階の向上はより合成して距離を平方根にしようとする試みに過ぎない。
このため、インテグラル理論は世界を包括するビッグピクチャーであるものの、生きがいほどには重要ではない。
どのパラダイムの人生も肯定される必要があることを特にインテグラル理論は強調しているが、そこには生きがいがあると言える。
そうした、『考えるより行動せよ』『そもそもなぜそうするのか?理由を持て』という価値観は、古今東西の自己啓発などで見られる。√3だろうが3だろうが、そもそも進んでいるか?と比べれば些細な差になる。
このことから、世界を変える理論を構築するには、
インテグラル理論にさらに『生きがい』という概念と、『どうすればそもそも人間は進もうとするのか?』に関する理論を組み合わせる必要がある。
そしてインテグラル理論さえ含んで超えた『生きがいの理論』こそが、世界を変えられる理論になるのではないか?と考えている。