最近読んだ本
チョ・ナムジュ著、斎藤真理子訳「82年生まれ、キム・ジヨン」。
タイトルの通り、1982年生まれの韓国人女性キム・ジヨンの生涯を2016年―34歳になるまで追った長編。
すでに知っている方が多いとは思うが、本作はいわゆる「フェミニズム小説」に当たる―この言葉も十分適切ではないが。
女性が幼年期から母親として役割を果たすまでに受ける様々な社会的外圧と、自らの心に植えつけられた内圧の間でもがき苦しむ姿はあまりに痛ましい。
何しろ公園でコーヒーを飲んでいるだけで「ママ虫」―韓国語で「マムチュン」、子どもを育てず気ままに生きる害虫のような女性―という言葉をサラリーマンたちに投げつけられるのだ。かくも女性の生きづらい社会だと思う。
その上で、やはり筆者には本作に十分のめり込むことができなかった。その理由を残しておきたい。
本作は三人称視点だが、無名の語り手(≒作者)とキム・ジヨン氏の距離が近すぎるように感じるのだ。その結果、やや女性が「身びいき」されているという読後感が残る。
先に言っておくと、本作で男性には固有名が与えられないがこれは問題ない。男性の創作物で女性が都合よく扱われてきたことへのしっぺ返しだ。(どうでもいいが、ドストエフスキーの男女を総入れ替えしたら作品は変わらず成り立つだろうか。「カラマーゾフの姉妹」は世界的名作になるだろうか。
やはりフィクションにおいて、男性に癒やしを与える「聖女」や男を惑わす「ファム・ファタール」といった定型の役割は女性ばかりに与えられ過ぎてきた。)
ただ、聞いてほしいが、韓国には二年以上の兵役がある。女性も志願すれば入隊できるそうだが(筆者も初めて知った)、基本的に男性が対象である。内情は日本の自衛隊と似て体育会気質、パワハラの温床と聞く。
もしそうした社会に私がいたとして、女性に公平であれるか。無理だ。筆者も「女なんて……」式の罵詈雑言を吐いていると思う―どうして自分だけがこれほど生を搾取されねばならないのか苦しくて。
こうした「フェミニズム小説」のジャンルを筆者は十分に読んだとは言えない。だからもう的外れな意見に決まっているのだが、どの作品でもあまり男性が「敵役」に徹しすぎている。そう書かざるを得ない経験を女性たちは傷として抱えているにせよ。
真に闘うべきは既存の硬直した制度―人間の柔らかな心を歪めて壊す―ではないのか。こうした小説は結局、人と人との断絶のみを深める危険を持たないか?
それでも現に苦境にある女性に、何かしらのエールを送る可能性は間違いなくあると思う。
(追記)同じく韓国の、「九尾の狐とキケンな同居」というドラマをしばらく見ていた。999年生きた九尾の狐のシン・ウヨと、彼が人間になるためのキーアイテムである玉を(アクシデントから)飲んでしまった女子大生イ・ダムのラブ・コメディなのだがこのヒロイン、イ・ダムが素晴らしい。ポテチを食い散らかし大学に行く際の身なりにまるで気を使わない。好物は鶏肉とお酒だ。
女性に内的規律として強いられる身振りは多い。屁をこくこと、ビールの大ジョッキを勢いよく傾けること、靴下を半分脱いだ状態で履くこと……など、やはり女性により厳しい目が向けられる傾向は(少なくとも日本では)変わらない。それをぶち壊す身振りは痛快そのものだ。
また作中、女性のPMS(月経前症候群)に配慮のない―そもそも知らない―男性が、呑気にデートの身支度をするある意味で醜悪なシーンがあり、これも良かった。
ただ、恋が進展するに従い彼女が普通にかわいい女の子になって、見るのを止めてしまった。だが何かの参考になれば幸いである。
「雨月物語」と言えばやはりあの三島由紀夫御大に称えられた「白峯」だろう。いや、男同士の友情美しき「菊花の約」だろう。
いやいやいやいや……「貧福論」である。
あらすじ:ケチとして知られる岡左内は、実際は金について一家言のある男で、人々もやがて評価を見直す。そんな彼のもとに、長年大切に扱われたお礼としてお金の精霊がやってくる。二人は金銭論から君主論まで自由に語り合う……
やはり昔の人もなぜ悪人が栄え善人が貧しさに喘ぐのか、疑問に思ったに違いない。
世俗仏教は「因果応報」と言い、儒教は「天命」と言う。上田秋成と論争した国学者の本居宣長なら「天照大御神のなおき御心」とでも言ったか。聖書ならコヘレトの言葉にも同じ疑問が書き残されている。
だが、やはりお金のことはお金の精本人に聞くのが早い。といってスピリチュアル傾向の「お金が喜ぶ百の方法〜その一.お札の向きは揃えて入れましょう〜」のようなものではない。上田秋成は徹底したリアリストである。
村上春樹「海辺のカフカ」にも出てきた一節―要は、金は金なのだ。神仏ではない。大慈大悲などどこ吹く風。血も通わぬ心なき存在―いや心はあるのだが人とは違う心の持ち主―それが金なのだ。
だから、
「ときを得たらん人」―バブル景気に乗り合わせた社長さんが
「倹約を守りついえを省きて(注:仕事に)よく務めんには」―横領したりザギンでシースー・パーリナイしたりせず銀行に金を預けきっちり働いていれば、
社長さんがSM趣味でも平社員の頭で自分の靴を磨く根性曲がりでも
「おのづから家富み人服すべし」―社運は明るいし取引先はペコペコする―のだ。
ただ今では銀行に預けても目減りするばかりなので、ニーサやイデコ(?)を使いこなすスキルが必要になってきそうだが。
酒井駒子「夜と夜のあいだに」
絵本であり、文で魅力が伝わらないとは思うが読んだからには書く。
ページ1.黒のギザギザの枠に囲まれた、暗闇のベッドの上で夢ううつの少女
ページ2.ベッドからそっと降りていく少女/ 「夜と夜の あいだに
目を さました
子どもは…」
ページ3.洋服ダンスの一番下を開けるショートヘアの少女、サクランボの柄のパジャマの白地は闇のなかでほの明るい/
「母親の 引き出しを あけ
白くて ひらひらの
シュミーズを 取り出し」
ページ4.母親のシュミーズを身に着けた少女。サイズが当然あっておらず、上半身はほとんど丸見えになっている。シュミーズの白はパジャマ以上に白く明るく、周囲の暗さをいっそう引き立てもする
ページ5.椅子を持ち出し、高いところにある箱を手に取る少女
ページ6.糸巻き、いくつかのボタン、針刺しとまち針、算用数字の番号を振られたリボン、cookieと黒字で書かれた缶。まち針の玉のみ色になっている/
「さわると 叱られる 針箱から
糸と クッキーと ボタンを ひとつかみ
それらを クッキーの 缶に 入れ」
ページ7.「髪を とかし」
ページ8.おそらくは靴磨きのブラシで、鏡に向かい髪をとかすシュミーズ姿の少女。右手にはクッキーの缶を抱えている
ページ9.カナリアの鳥籠を少女は開ける
ページ10.「扉を あけて」
ページ11.12.両親の眠るベッドの前を身を潜め行く少女、裸の背が見えている
ページ13.14.玄関扉を開ける少女を、王冠や髪飾り、星の飾りを備える四匹の黒犬が囲んでいる、三日月と無数の星々が空にあり、家の外壁と犬たちの立つ地面は白々と明るく、その周囲を植物の茂みが暗く覆っている
ページ15.開け放たれた鳥籠の縁に立つカナリアが闇の向こうを見つめる
ページ16.「それきり
もどっては
来ないのでした。」
この他、表題作「金曜日の砂糖ちゃん」、少年を主人公に据えた「草のオルガン」が収録されている。どちらも秀作である。だが、筆者にとっての一番はやはりこの「夜と夜のあいだに」である。
少女はこの後四匹の黒犬とどこへ向かうのだろう―夜の闇の中で。
※暴力的、性的な内容が含まれます
コーマック・マッカーシー著、黒原敏行訳「チャイルド・オブ・ゴッド」。
あらすじ:レスター・バラード。この暴力的な男は極度の貧困のなか、犯罪欲求に呑み込まれていく。
ページ数だと228ページ、少し長い中編くらいか。それにしても話すことのない作品である。
いや、駄作ではない。ここまでコーマック・マッカーシーは「悪の法則」「ザ・ロード」「ノーカントリー」「ブラッド・メリディアン」(「悪の法則」以外は「最近読んだ本」に載せたので参考になれば読んでほしい)と少しずつ過去作に遡って読んできたが、本作も変わらず暗く、救いがなく、素敵だった。
ただ、娯楽小説的な膨らみのある前三作と比べ、直球ストレートで文学的な本作は要約がより困難だ。
三部構成であり、第一部は様々な人々の語りから、徐々にレスター・バラードという男の輪郭が浮かび上がってくる(ここが一番読みづらい)。
第二部からはノワール小説として読める。バラードは死体を家のなかに持ち込み、死姦する。さらに七人の女性を殺め洞窟に隠す。
アメリカでは本作を課題図書に入れた教師が教職を退く羽目になったという。
記憶に残ったのは、(おそらく)知的障がい/境界知能を抱えた姉妹の父親のエピソード。彼女たちは気を抜くと男を連れ込み、子どもを作ってしまう―というより男たちに付け込まれるのだろう。
そこで父は夜間ショットガンをぶっ放す。男たちが娘たちとこっそり「ファック」しないために。
悲惨なエピソードなのだが、あまりに衝撃的で記憶に残っている。
また、タイトルも皮肉なものだ。この劣悪な犯罪者としか見えない男が、「チャイルド・オブ・ゴッド」―神の子というのだから。
キリスト教徒の多いアメリカ本国なら、さらにこの言葉は(私やあなたと同じようにレスター・バラードも)神の子である―人間とは普遍的にこのような存在である、という暗いテーゼを示しもするのだろうか。
他に芥川竜之介の「金将軍」を読んだり(皇国史観への皮肉と取れるユニークな短編だった、青空文庫でも読める)、あのガリヴァー旅行記を書いたスウィフトの
「アイルランド貧民の子が両親や国の重荷となるを防ぎ、公共の益となるためのささやかな提案」
という短編を読んだり(なお肝心の回答は子どもを食べること、ろくな福祉政策を取らない当時の英国を皮肉っている)した。
(追記)ここから読まなくていい
小林よしのり「戦争論」。扱おうか迷ったが、書くことにする。
筆者は強い怒りを感じながら読んだ。自論に逆らう者を醜悪に描き、読者に(仮に小林氏の意識的な狙いではないにせよ)歪んだ理解を与えるこうした作品は許してはいけない。
その上で、本作の執筆動機を探すとするなら以下の箇所が適切だろう。
この漫画が出版されたのは1998年に当たる。日本という国は確かに当時、中心となる理想を欠いた経済原理のみで動いているように見えたのだろう―新自由主義が国家そのものさえ破壊し始めた現在に比べればまだましだったのは皮肉な話だが。
小林氏は、この、中心を欠いたちくわの如き平和に、一本のキュウリを刺そうとしている。このキュウリが(理想化された)二次大戦である。
人はときに「公」のために生きねばならぬ。しかし今、人はバラバラの「個」としてしか存在していない。これが小林氏の問題提起である。
◯ここまでは納得できる。たとえば投票率の低下に代表される政治への無関心は、一つは人が人との関係のなかで生きる「公」の実感のなさに起因するだろう。
こうした「公」の感覚のない社会は、弱者に厳しく主体性のない虚ろなものになる。
ところが海の向こうから小林氏のキュウリ(追記:キュウリは言い過ぎだった、黒船……も不味いのか、戦艦大和でどうだろう)がやってくる。日本はいい子ちゃんの「サヨク」どもに牛耳られ、「自虐史観」を植えつけられている。この状況を変えるため、輝かしい日本の過去―「大東亜戦争」―を思い返そうではないか。
◯ただし、「自虐史観」という言葉にはこの時点でかなりニュアンスに揺らぎがあったと聞く。
歴史のなか酷たらしい殺戮を繰り返したのは日本だけではない。ナチス・ドイツやスターリン、毛沢東にポル・ポト……枚挙にいとまがない。
そこでいたずらに日本はだめだ、劣っているの一点張りでは却って、歴史や世界全体への批判ができなくなる。
ことさら「自虐史観」に陥らず健全な歴史認識を鍛えよう―本来の「自虐史観」はこうしたニュアンスも含んだ言葉のはずだった。
「公」の喪失を「個」の増長に帰したところに小林氏の誤りがある。
筆者はここでハンナ・アーレントの「マス」―大衆の概念を持ち込みたいのだが。
幼少期、社会見学でゴミ工場に行った方なら分かると思うが缶類のゴミはかさばるので、プレス機で四角四面に押し潰してフォークリフトで運ばれる。この缶が「マス」―大衆である。
確かに缶と缶はどうにか互いを隔てている。完全に原形を失くしてはいない。これを「個」と呼びたければ呼べばいいが、しかしどの缶も形はへしゃげ、互いに身動きも取れず押し潰されている。ここには「公」どころか、「個」さえないのではないか。
人々は小さく各々の場所に押し込められ、息をするのが手一杯でないか。
これこそ今の私たちが置かれた状況ではないのか。そしてそれを覆すのは、決して権力の指図で行う侵略戦争の現場ではなく私たち一人一人の自発的な「個」が横につながることで生まれる「公」的な空間にあるのではないか?
とはいえ、これを絵に描いた餅にしないやり方はまだ分からないのだが。
「戦争論」に話を戻すと、まだ小林氏に個人の意見がある。小林氏なりの生の経験からこの戦争肯定が行われていることは認める。
しかし、この後小林氏の劣化コピーの過激派右翼が台頭し、さらに彼らを「お客様」として扱う、百田尚樹氏を皮切りとする商業主義的な右派論客が溢れるに至った。彼らには思想も主義もない。ただ人々を一時の熱で浮かれさせ、儲けることだけを目指している。
彼らを生み出した温床として、小林氏の罪は重い。
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