「弱者」から読む物語世界―虚構の有限を探る/村上春樹「海辺のカフカ」
※性的な描写を含みます
前書き
皆さん、ディケンズはご存知でしょう。彼は「クリスマス・キャロル」や「オリヴァー・ツイスト」など、ヒューマニズム溢れる作品を数多く書きました。
今でもイギリスでは愛されているこのディケンズですが、結構賛否分かれる作家でもあります。
例えば「めでたしめでたし」しか能のない作家だとか、筆致が(悪い意味で)過剰だとか―
「大いなる遺産」は冒頭から子どもを脅す脱獄囚が出てくるのですが、その語りは
「明日の朝早く、ヤスリと食いもんを持ってこい。(略)若い男がいっしょに隠れてる。(略)で、本人にしかわからん方法で、子供に襲いかかることができる。子供の心臓と肝臓にな。(略)腹をかっさばく。(略)さあ、どうする?」(ちなみに本文はこの三倍の長さです)
と、とても現実の脱獄囚の語りとは思えない。
これは「一九八四年」の作者ジョージ・オーウェルの指摘していたことですが、ディケンズの作品は「いたずら書き」の―子どもの―文学なのです。ほら、上の語りも子どもが夜、寝床で膨らませた夢物語のようではありませんか?
ディケンズの例は相当分かりやすいものですが、物語とはこのように、突き詰めれば「うそ」を使って膨らむパン種のようなものです。
だからこそ、ときに現実を生きる人々側からの異議申し立てが行われたりもする。
村上春樹さんの作品の女性の書き方がそうですね。あまりにも男性に都合がよすぎるとして、批判されています(私も同意見です)。
他に、ホーソーンの「ウェイクフィールド」という、ある日突然失踪してしまう男の妻の視点から語られた「ウェイクフィールドの妻」ですとか、「侍女の物語」で知られるマーガレット・アトウッドの、同じくオデュッセウス神話の妻による語り直し「ペネロピアド」ですとか、こうした物語の抱える虚構性を撃つ作品というのは(私の知らないものも含め)多々あるわけです。
大江健三郎さんの作品でも、しばしば物語の登場人物たちが作者の元へ詰めかけ、大江さんによる語りに苦情を申し立てる。
妻に、妹に、母親に寄って集って批判され続ける彼の晩年の作品は、でも読んでいると不思議な元気が出てきます。
ただ、こうした試みはときに(嫌われ者の)「ポリコレ」と近づいてしまう点も否めません。
強者の「正しさ」に対抗し、別の「正しさ」をぶつけたところで、土俵の上の力士の顔がすげ替わるだけで、結局諍いは絶えない……(それでも意味のある、またユニークな試みとは思うのですが)。
ですから、当記事はむしろ、そうした物語の「うそ」を探すことで、物語の始まり―物語が誰の声に応えているか/誰の声を奪い消しているか―を明白にし、その仕組みを解体することを目標として書きます。
今回は村上春樹さんの「海辺のカフカ」を取り上げます。少しの間ですが、お付き合い下されば幸いです。
海辺のカフカ―成長神話の「うそ」―
本作は教養小説であり、田村カフカという少年が両親との確執を乗り越え、成長していく過程を追った長編小説です。
彼は四国のさる図書館に寄宿し、カラフルな人々と出会っていき、しかし同時に悪しきものと闘うことにもなる……
難しく聞こえるかもしれませんが、ほぼ「ハリー・ポッター」と同じ筋立てです。
ハリー・ポッターは意地悪なダドリー家から逃れ、ホグワーツでカラフルな人々と出会い、ヴォルデモートという悪と闘うことになる。
ほら。
(違いは「実の両親」か「育ての親」かぐらいのものでしょう)
村上春樹さんの作品は、基本、かなり単純明快な作りを持っています。
ただ、途中で古典の引用やマジック・リアリズムを思わせる描写が挟まるため、難しく見られがちなんですね。
単純な物語のもたらすエンタメ性と、その周囲の細部描写の妙とのバランス感覚は卓越したものです。
しかし、一方で、女性の書き方はかなり歪なものが含まれていますね。
(下品なのであまり喋りたくないのですが)さくらという女性は、突然田村カフカのペニスを手で射精に導き始めるのです。
それより前のさくらの描写も含め、引用します。
僕は彼女の胸を見る。呼吸にあわせて、その丸く盛り上がった部分が、波のうねりのようにゆっくりと上下する。それは静かな雨が降りしきる広大な海原を想像させる。僕は(略)航海者であり、彼女は海だ。
彼女は軽いため息をつき、(略)手を動かし始める。(略)単純な上下運動じゃない。もっと全体的な感じのするものだ。彼女の指はやさしく感情をこめて、僕のペニスや睾丸のあらゆる場所を触り、なで回す。
本作では、確かに男性の性欲の持つ暴力性が問われてはいます。
しかし、上述の描写が、極めて男性的な視点から語られているのは否定できません。「胸」や「指」といった、身体の一部に対する嗜好が滲んでいる。そこにさくらという女性の思考や意思の覗く余地はありません。
本作ではもう一人、佐伯さんという女性が登場しますが、やはり同様の歪みを抱えています。
日本の作家では、例えば谷崎潤一郎が同様の性嗜好を有しています(彼は女性の足の裏を愛していました)。
しかし谷崎の作品がさほど批判されず、村上春樹の作品が批判されるのはなぜか。
私論ですが、谷崎の場合は確かに強い性的な嗜好が滲んだとしても、それを作品の内部に封じ込めていると思うのです。
例えば「瘋癲老人日記」がそうですね。ここで谷崎潤一郎は、女の足に縋る自分自身をパロディーとして書いている。
男性としての谷崎潤一郎より、常に作家の谷崎潤一郎が(少なくとも作品内においては)優位に立っている。
それが、谷崎の作品が現在でも残っている理由ではないでしょうか。
と考えたとき、「海辺のカフカ」の問題は、女性の性的描写が作品内に上手く組み込まれていない点にあると思うのです。
この後、田村カフカはさくらを夢の中でレイプするのですが、もし男性の性欲の持つ暴力性を示すのなら、そのエピソードだけで充分事足りる、と思います。
では、この胸の、あるいは手による射精の試みの描写は、いったいなぜ書かれなければならないのか。
十代の少年の多くがそうした性欲を持つ以上、描写をするのは当たり前だと言えばそうかもしれない。しかし、仮にそうだとして本当に男性の性欲の暴力性を追求するなら、こうした描写はその後にしかるべき批判が用意され、初めて意味を持つはずです。
しかし、「海辺のカフカ」には該当する描写がない。
そのため、これらの描写は「海辺のカフカ」という作品そのものを裏切っている、と思います。「海辺のカフカ」の持つ主題性を、これらの描写は自ら損なってしまっている。
さて、ではなぜ、「海辺のカフカ」では女性の描写が歪になったのか。
理由としては、田村カフカという少年の成長に性的な要素が必要だとする一種の先入観があったと推測します。
村上春樹作品を読んでいて息苦しいのは、男と女が必ずペアとなることです。
本作には複雑な性自認を持つ大島さんの描写が含まれますが、それでもやはり、「男性は女性を求めるもの」という、一種の固定観念が作中にある。
その結果、男女の関係性(しかも必ず性的な要素を含む)が作中に登場し、しかも作品としての必然性を持たなくなった、と私は推測します。
なぜ、そのような固定観念があるのか。
村上春樹作品において、女性は常に「客体」なのです。そして失踪した妻を探し出し、謎めく少女と関係を持つ「主体性」を発揮するのは常に男です。
「海辺のカフカ」には夏目漱石の話が出てきますが、彼の言葉にこんなものがあります。
「二個の者がsame spaceヲoccupyスル訳には行かぬ」―二人の人間が同じ場所を占めることはできない。
夏目漱石は人間の主体性の疑わしさを深く見つめた作家でした。
もちろん「坊っちゃん」では、まだ単純な勧善懲悪が(坊っちゃんによって)成し遂げられますし、「虞美人草」も同じ構図を持っています。
しかし「門」になると、人間の主体性の確かさは次第に疑われていきます。自分の意志で得たはずの女性である御米と暮らしていても、主人公の宗介が感じるのは過去に彼女を他者から奪った悔恨と罪悪感だけです。
その後の「行人」「こころ」「明暗」となると、人間の主体性はまったくの無力です。
人間は主体性を発揮できるとして、その主体性に身勝手な欲望―エゴイズム―が含まれない保証はどこにもありません。
まして、性欲が人間の主体性に含まれるとはひどく滑稽な主張でしかない。
にもかかわらず、「海辺のカフカ」の描写では(というより村上春樹作品全般において)、男性の性欲は「主体性」を持つ人格の支配下にあるかのように書かれている。
けれど、現実を見ればそれは手ひどい嘘です。数多くの男性が自らの性欲求をコントロールできず、身近な女性や子どもの心身を損なっている。
物語は常に「うそ」によって膨らみます。「海辺のカフカ」における「うそ」とは何か―それはこの人間の「主体性」ではないでしょうか。
仮に人間が探偵小説の主人公(あるいは伝説の傭兵)のように、強靭な心身を持ち、この世のすべてを自己の判断で乗り越えられるとするなら、「海辺のカフカ」の物語は正統なものでしょう。
しかし現実は違います。
女性、子ども、障がいを持つ方々、あるいは経済的な事情から、自己の判断を抱く余裕もなく、日々を懸命に生きている人々―そうした「弱者」が、「主体性」をめぐる物語からは零れ落ちてしまう。その先にあるのは「自己責任論」―人間が自己の生のすべてを選択できるという、荒唐無稽な「うそ」が生み出す虚ろな物語だけです。
「海辺のカフカ」を含め、村上作品において女性の描写は歪ですが、さらに言えば、その作品において無力な人間の存在が無視されています。
しかしそれは村上春樹という作家が差別主義的であることを意味しません。むしろ、彼が信じた「人間の主体性」が、実際は驚くほど無力であったことを示すのではないでしょうか。
夏目漱石は、繰り返しになりますが、そうした人間の無力さを見つめ続けました。
しかし、戦後日本において、人間の主体性はほとんど手放しの肯定を受けました。
そしてさらに人々を自由にするため、アメリカが率先し、ソ連の共産主義(実際はマルクスの理想を棄てた官僚主義と独裁でしたが)や、イスラーム圏の宗教至上主義を、民主主義という、人間の「主体性」が発揮できる価値観に置き換えようとしてきました。
しかし、その結果はどうでしょう。「主体性」を発揮するはずの当の人々はデマに心を揺さぶられ、構造のもたらす貧困に苦しみ、与えられた自由はたちまち強者に都合よく蝕まれていきます。
人間の「主体性」を信じることで今日までの先進諸国は成り立ってきました。
しかし、ホロコーストを深く反省したドイツにおいてさえ「イスラムフォビア」(イスラム教やその信仰者への嫌悪)は強く、ハーバーマスを始めとする知識人がパレスチナで卑劣な民族浄化を続ける国家であるイスラエルを支持しています。
「主体性」への信仰は、まさしく「same spaceヲoccupyスル訳には行か」ず、「主体性」を脅かすもの―異民族やその信じる宗教―への蔑視において成り立つ暴力性を温存しているのです。
「海辺のカフカ」においても、同様の問題が見られます。田村カフカという少年の「主体性」を脅かすもの―女性や他者の「主体性」―は、そこではないものとして扱われてしまう。
さらに、田村カフカという少年はこの後には老いて弱くなっていきます。そのとき、彼は巨大な暴力にどう立ち向かうのでしょうか。
人間の老い、弱さ、脆さ―「死」を除外することで「主体性」という概念は―「海辺のカフカ」という作品は―成り立っています。
それはこれまで、私たちの社会が保ち続けた「うそ」の姿でもあります。
どうでしょうか。やや批判的になりましたが、「海辺のカフカ」という作品には素敵な部分もたくさん含まれています。ユーモアがあり、美しい言葉がある。
しかし、それら細部を集約する中心の物語が拠って立つ「うそ」―人間の「主体性」―への疑いや問いが不十分だった結果、「海辺のカフカ」は現実の暴力性から手を切ることができず、結果的にその説得力を大きく損ないました。
長くなりましたが、同様に、様々な物語が成立するに当たって信じる「うそ」の正体を探ることで、作品の構造を解析するのがこのシリーズの目的です。あなたの時間を随分奪ってしまいましたが、少しでも参考になったなら幸いと思います。読んで下さりありがとうございました。
最後に以前書いた記事を載せておきます。それほど大したことも書けていませんが、興味があれば。