見出し画像

時代遅れの効能

 中国人の同僚はマラソンが好きで毎月どこかの大会にエントリーして中国国内を転戦、旅行することをライフワークとしている。ほぼ毎日走って月間走行距離は200〜300km。PBなどを聞く限り彼は完全なエリートランナーの部類に入る。そして彼は日本の長距離走の強さや駅伝文化をとても羨ましがっている。一方で私は単なるファンランナーで1週間に2〜3回を散歩代わりに走るレベル。年に一度は決まったマラソン大会に出るのでそろそろ練習を開始しようとしていたところ。彼に最新のマラソン業界界隈のことをレクチャーしてもらった。今年の大学駅伝で強いチームや選手、効率的な練習法、そして最新ギアなどの情報。そして私に欠けていたのはスマートウォッチを練習に取り込むことだとご指摘頂いた。

 Appleに牽引されたスマートウォッチは普及して10年近く経つが、これまで全く食指が伸びず気にも留めていなかった。今ではこのスマートウォッチがランナーにとっては必須アイテムになっているとのこと。その効果と効能をここで私が語ることに価値はない。それよりも時間差でこのスマートウォッチを経験することの意味を考察してみたい”時代遅れ”の効能を主張することになると思う。

 まずエリートランナーの標準ギアとしてGARMINとCOROSが存在する。GAMINはアウトドア用途ですでに私も認知していたが、COROSという中国発の新興メーカーの存在感(世界のトップランナー達が使用)が増しているという事実を初めて知った。彼は価格的にCOROSを選択したようだが、折角中国駐在の立場なので私もCOROSを購入して使用することにした。
 このCOROSでできることは端的に説明すれば日々のランニング距離と強度を自動的に記録する。そしてそれをスマホ、PCアプリでシームレスにデータ管理、表示してくれる。しかもハードとソフトの両面で非常に洗練されたツールで自分が自然とバージョンアップした錯覚を起こさせる。

 このレベルに洗練されるまで何度もモデルチェンジを繰り返して、プロランナーやエリートランナーのフィードバックを受けてきたことが容易に想像できる。テクノロジーの新しさよりも、その使用感のスマートさに驚きを覚える。私自身アーリーアダプターではないため、いつも時間差で流行りのものやテクノロジーを享受することになって一人興奮してしまうことが多々ある。そして周りから「何を今更?」のような困惑した顔をされる。

 昨今のテクノロジーはそれが市場に出て終わりではない。社会で使用されて都度修正とブラッシュアップを経て完成度を上げていく。メーカーとユーザーの共同作業でモデルチェンジが繰り返される。その共同作業に参加せず(できず)、私は完成度上がった状態で手に入れることとなる。大袈裟に驚きながら、テクノロジーが生まれてメーカーとユーザーの年月を掛けた練磨の時間含めて感心しているのだ。

 今、NetflexでTVドラマ「不適切にもほどがある!」を楽しんでいる。脚本も面白いし、キャストもみんな魅力的だし。物語としてはタイムトラベルで過去と未来を行き来しながらそのギャップでキャラクターが葛藤しながらも躍動する王道のシナリオ。

 タイムトラベルのような寓話が繰り返し語られるのは、根源的にこの構造に我々は惹かれるということを歴史が証明している。そして現実的ではないタイムトラベルに何故かリアリティーを感じ、感情移入してしまう事実をそこにみる。私たちは全ての事象に完全にキャッチアップできるわけではない。ある現象が社会的に立ち上がり、事象として安定したことを事後的に個人が知ることになる。その構図の中に時間の圧縮、時間のズレ/捩れを見出す。スマートウォッチは私の知らないところで育まれて、完成度の高いスマートウォッチが突然目の前にあらわれた。そのスマートウォッチはすでに10年の歴史を包摂している。
 時間を忘れるほど夢中になった時間の伸び縮みは個人レベルで完結する話。一方でタイムマシンのそれは他者を巻き込まなければならない。完成度の高いスマートウォッチを通じて生じた社会(他者)と自分との間にある時間感覚のズレはタイムマシンで生み出される現象と類似する。タイムマシンは現実世界における個人と他者の時間感覚の捩れをメタファーとして表現している。

 時間というものは理論物理学的には存在しないらしい。相対性理論にも時間と空間は時空として地続きで記述されており、我々が実生活で体感するものとは異なる。つまり時間とは分かったつもりになっているだけで、実際には不可解な存在。その不可解さに対して我々は無頓着を決めつつ、何故か強く惹かれる。タイムトラベルとは過去現在未来を俯瞰して現在を見つめ直す寓話としても機能するが、それと同時に時間の不可解さを追認する役割も担っている。身近な時間の流れを揺さぶることで寓話とエンタメを両立する優れたフォーマットだ。不可解さが残らないものに我々は惹かれない。

 ”時代遅れ”と揶揄されても私はタイムトラベルを楽しんでいると反論したい。その理路を説明してきたつもりだが上手く表現できている気がしない。タイムトラベル的にプロットを入れ替えて再度同じ主張を繰り返す。

 まず我々事実としてはタイムトラベルを伴った物語に強く惹かれる。それはタイムトラベルは寓話として機能しつつ、構造的にエンタメ要素が付加される。それは何故か。タイムトラベルとは過去未来に現在の自分を移動することを指すが、実際に表現しているのは現実社会における個人の時間軸と社会(他者)の時間軸のズレである。この現象は日常にここかしこに存在しており、我々は時に戸惑い、時に苛立ち、時に楽しんでいる

 例えばスマートウォッチ。10年前から普及して毎年アップデート繰り返して今ではかなりの完成度に到達している。これまで全く手にしたことも関心もなかった私が今それを使用することで10年という時間の圧縮を感じつつ、他者と自分の時間のズレ、捩れを味わう。どこかで10年という時間が流れていたが、私の中では一瞬の時間として過ぎ去って、完成度の高いスマートウォッチとして表出した。無意識レベルで作為されたタイムマシンの亜種とも言えよう。
 蛇足的にいえば「不適切にもほどがある!」TV放映半年後の今、事後的に楽しんでいる私とリアタイの人達(他者)の間にも時間的な捩れがある。私はNetflexで一気に視聴して、Web上の豊富なレビュー確認含めて圧縮した時間の中、時間差を持って、この作品を堪能している。

 具象から抽象を語り、抽象から具象を語る。帰納的に考察し、演繹的に思弁する。個人的なスマートウォッチ体験で”時間”の捻れを考察し、”時間”についてタイムトラベルと日常の体感を結び付けて思弁を展開した。

 自分の中でCOROSスマートウォッチとTVドラマ「不適切にもほどがある!」を同時に摂取したことで奇妙な論述が生まれた。この主張はあまりに個人的体感に基づくものであって、共感が得られることはあまり期待していない。でも個人の存在理由は偶発的で奇妙な思考の組合わせとその一時的な共存にあると主張したい。多様性という本当は不可解極まりない個人。客観性のない時間軸と認識論。エビデンスに基づかない思い込み、偏見や偏愛。身近なタイムトラベルが日常に溢れている。

イラスト引用:https://chojugiga.com





いいなと思ったら応援しよう!