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【エッセイ】ジャンジャック・ルソー『エミール』を読んで(読書感想文)

実家に帰省した際に、本棚をなんとなく眺めていた。そこには、なんだか懐かしい本が色々と並んでいたけれど、どうしてかルソーの『エミール』に目がとまり、そっと手にとった。最初の数十頁を読み始めた瞬間にとまらなくなっていた。

この本を最初に手にしたのは、たしか10代後半か20代前半の頃だった。まさに教育される側にいた私には、この本の文字をなぞることはできたけれど、その意味を理解することはできていなかったことを思い知らされる。いま、人を教育する側の年齢になったとき、ルソーが書く教育論が、信じられないほどに心に響いてくるのである。

もちろん、ルソーの『エミール』は、当時のブルジョワ階級にいる母親たちに宛てて書かれたものだから、現代に、そのまま当てはめることができない部分も多い。しかし、ルソーの根本的な思想は、いまでも十分に通用するように思われる。特に、正解のない様々な教育論に振り回されてる父親や母親たちに対して、いかに子どもの生きる力を信じて、忍耐し、不要な手を貸さずに、この難しい社会のなかで、強く生き抜いていく力を子どもに与えることができるのかについて、考え直すきっかけをくれる本だといえよう。

どんな環境にあっても、困難や試練に立ち向かい生きていく力こそが親が子に授けてあげるべきものであり、知識や技術や学問などというものは、あとで子どもが自ら学びたいときに学べばいいのである、という。なるべく自然に任せなさい。子どもが、人間が、本来備えているはずの本性に従いなさい。他の動物たちがそうしてるように。健全な体に健全な精神が宿る。体を強くしてあげなさい。そして何も知らない子どもに、支配欲求や命令することを覚えさせないこと。自分の手でできることを増やしてあげなさい。そういうことを通じて適切な愛着を学ばせなさい。超一級の哲学者がそういうのである。そして、そのための方法論をあますとこなく、試論してみようと、冒頭でいうのである。わくわくせずにいられるだろうか。

私は、1頁、1頁と書を進めていく。ドッグイヤーが何度折られたことだろうか。紹介したい文章はたくさんあるが、ここにそれを列挙することにどれほどの意味があるのか分からない。むしろ一度、しっかりと本書を手に取って欲しい。

一度読み進めれば、ヒューマニズムとは何かを知ることができるだろう。いかに私たちが、大人が考える正体もよく分からない幸福を押し付けるために、子どもたちから、人生の喜びを真に味わう力を学ぶことができる純真な子ども時代を奪っているかを、理解することができるだろう。そうした幼少期を過ごした子供たちが、か弱く、ひどく臆病で、青白い顔をした青年期を過ごし、社会に対して恨みつらみ憎しみしか持たず、生きる喜びを知ることなく、死にたいなどといいながら死ぬこともできずに、いつ終わるかも分からない人生を苦痛と共に過ごしていくことになるかを、私たちは知っているはずだ。あるいはとるに足りない快楽のためにとても不人情で残酷な大人になってしまうかを知っているはずだ。

高度に分業化が進むだけでなく、私たちの生活の大半が機械によって代替ないし補助されている。便利になるにつれ、本当に自分1人の力でできることは少なくなっていくばかりである。しかし、私たち人間は、この高度化した社会、特にここ10年のデジタル化社会に対応できるようには全く進化していないのである。社会と対峙する前に、自然的な人間本来の能力に目覚めさせなければ、とてもじゃないけれども、慣習や人為的ルールや偏見に満ちた社会で、幸福に暮らしていくことはできない。偏見から離れた目を持った、真に自由な精神を養うには、手と足を動かし、視覚も触感も存分に鍛え、経験から学ぶことが何より大事だという。経験に基づかない文字面だけをなぞって得た知識がいかに子どもに誤ったことをたくさん教えることになるかを、ルソーは教えてくれる。

上述の通り、ルソーは18世紀にすでに現代社会で逞しく生きていくのに必要な力とは何かを鋭く言い当てていた。そこからは、フランス革命が始まる直前の、不穏な時代にあって、ブルジョワ階級の子ども達に、その身分を追われたときに生き残れる力を持たせてやりたいという強い気持ちが伝わってくる。

ルソーの人間観察力が並外れているのは当然として、大人に対するある種の諦め、子どもに対する希望の気持ちにも共感を覚える。それでも、私は、大人になってからだって、素直さと謙虚さを持ち、もう一度生まれ直す位の覚悟があれば、つまりもう一度、安定した環境で教育され直す、あるいは自らを教育し直し、変化していく覚悟があれば、変われると信じたい。それに成功できる人がどれだけ稀であったとしても。最近、不幸を謳う大人や青年たちをあまりにも多く見すぎたような気がする。それが悲しいし、それに対して何もできない自分の無力に苛立ちすら覚える。どうしてみんなこんなに生きづらそうにしているのだろうかと、ずっと問いかけていた矢先に出会ったのが、本書だったというわけである。

最後に、読んでいるうちに思わず涙がでてきた箇所を引用して、結びに代える。

まず、引用文の前の個所で、ルソーは、次のように問いかけていた。

当時、長く生き延びることができない子どもたちが大半だった。ルソーは、遠い将来のために教育として授けられる苦しい勉強に対して、「不確実な未来のために現在を犠牲にする残酷な教育をどう考えたらいいのか」と問いた。そして、もっとも快活な時代を涙とこらしめとおどかしによって、子供たちを奴隷状態のまま過ごさせることになることに対して、ルソーはこう答えるのである。

人間よ、人間的であれ。それがあなたがたの第一の義務だ。あらゆる階級の人にたいして、あらゆる年齢の人にたいして、人間に無縁でないすべてのものにたいして、人間的であれ。人間愛のないところにあなたがたにとってどんな知恵があるのか。子どもを愛するがいい。子どもの遊びを、楽しみを、その好ましい本能を、好意をもって見まもるのだ。口もとにはたえず微笑がただよい、いつもなごやかな心を失わないあの年ごろを、ときに名残惜しく思いかえさない者があろうか。どうしてあなたがたは、あの純真な幼い者たちがたちまちに過ぎる短い時を楽しむことをさまたげ、かれらがむだにつかうはずがない貴重な財産をつかうのをさまたげようとするのか。あなたがたにとってはふたたび帰ってこない時代、子どもたちにとっても二度とない時代、すぐに終わってしまうあの最初の時代を、なぜ、にがく苦しいことでいっぱいにしようとするのか。父親たちよ、死があなたがたの子どもを待ちかまえている時を、あなたがたは知っているのか。自然がかれらにあたえている短い時をうばいさって、あとでくやむようなことをしてはならない。子どもが生きる喜びを感じることができるようになったら、できるだけ人生を楽しませるがいい。いつ神に呼ばれても、人生を味わうこともなく死んでいくことにならないようにするがいい。

ルソー(今野一雄訳)『エミール(上)』(岩波文庫、1962年)100頁~101頁。


私は、このような思想を持った指導者に巡り会えたなら、子どもたちはどれだけ幸せだろうかと思う。

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今回は、このワクワクと感動を伝えたくて、そこに焦点を当てて書いたため、詳細についてはほとんど紹介できなかった。本当に2、3頁に一度はうーんと考えさせられる人間観察が入り込んでくるので、整理仕切れていないというのが本音でもある。また別の機会に、テーマを絞って感想を書きたいと思うけど、できるかなぁ。

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