Diaryというか心象?_季節が移ろうのを止めることができないように
だいぶ前だけど、英語のリスニング練習のためにNetflixの「ラブ」っていうラブコメ?を観てたことがある。恋愛依存症の女の子とお人よしの男の子っていう、チグハグの2人の全然うまくいかない恋愛物語。なんかそれが面白くって。その監督(ジャド・アパトー監督)がインタビューでこんなことを言ってた。
「いつの時代も好みは人それぞれだから人間関係もまた多種多様だと思う。ただ僕が思うのは、人間というのは自分をいらつかせる人が気になるということ。君のお母さん、お父さんのことを考えてみればいいよ。誰の人生にもその関係性を通して、自分を混乱させると同時に自分を癒してもくれる存在がいると思う。“恋人にするなら可愛いブロンド娘じゃなきゃだめ”なんて思う奴もいるだろうけれど、そういう奴だって知らず知らずのうちに自分を癒してくれる人間を嗅ぎ分けてるんだと思うよ。人々はそういう相手を探し求めているし、それはあらゆる人間関係に通じることじゃないかな。」
自分にとって大切な人ってときどき見えなくなってしまうことがある。それが本当に大切で必要な人なのか、そうでなくなったのか。その判断ってとっても難しい。問題なく日々が過ぎていって、感情が落ち着いてきて、ふと立ち止まって、そのことについて考えてみたとき、私、今何を感じているのだろうって。
そんなときに、監督の言葉を読んでて思ったの。ずっと一緒に過ごしてきた人に対して、イライラすることってどうしてもある。それって理解してほしいとか、そういう期待があって、でもその期待が裏切られたときに、勝手に感じてしまう感情だと思う。それは私のことを分かって欲しいっていう、多分、相手が大事な人だからこそ生じる感情の1つなんだと思う。
だからこそ、昔ほどイライラしなくなったとき、その原因ってなんなんだろうって。
それが関係性が安定したからだったとしたら、例えば、対話が進んでお互いの理解が深まったからだとしたら、すごくいいことだと思う。でもそうじゃなくて諦めとかが積み重なって、関心がなくなってしまったからだとしたら、2人の関係にとっては割と致命傷な気がしている。
でもそれってどうやって見極めることができるのだろう。
自分にとって大切な人とそうでなくなってしまった人、どうやって判断して決断してる?
私なりに思いつく基準はいくつかあるの。
例えば、ポジティブな感情がなくなったかどうか。
一緒にいて嬉しい、楽しい、幸せ、安心する、とか、そういうポジティブな感情の動きがあるかどうかって大事だと思う。もし相手と一緒にいるときに、無感情だったり、無感動だったりしたら、それは関心がなくなっているってことなのかなぁって考えてしまう。
あるいは、コミュニケーションの質?
深い対話ができるのか、それとも表面的な会話しかできないのか。
私にとってこれは結構重要かもしれない。どうでもいいことを言い合える仲の人が大切な人だよって言われることがあるのだけど、納得がいってない。だってそうだとすると、コミュ力がそこそこ高い人間にとっては大半の他人が大切な人になってしまう。だから、どうでもいい話しを楽しめることも大事だけれど、それと同時に、ここぞというときに、自分の気持ちも、相手の気持ちも、素直にぶつけ合えるっていう安心感があって、そうやってぶつかったときに、なんだかんだで受け止めて理解しあえるかどうかって大きい気がする。
もう少し物理的なとこでいくと、共有している時間の量や質だろうか?
一緒に過ごす時間を楽しめてるのならいいよね、きっと。だけど、楽しめなくなったり、一緒にいる時間が減ったり、会話の量が減ったりして、それで寂しいとも思わず、平気だったりすると、やっぱり関心がなくなってるのかなぁなんて思ってしまう。
それから、共通の目標や計画があるかどうかも大きいのかな。例えば、家を建てるとか、子どもを一緒に産み育てるとか。ドイツ人の友人がね、若い夫婦が家を建てると、建て終わったら離婚するのはあるあるだよって教えてくれたことがある。それは共通の計画が終了してしまったからだって。その話しを聴いた時に、なるほどなぁって思った。
あとは何があるかな?
うーん。必要なときに必要といしていたサポートを受けることができたかどうかも重要かもしれない。自分だけでなく相手もサポートしてくれているって感じれたら、安心するもんね。でもそれが得られなかったら、自分には関心が無いのかなぁって感じてしまうかもしれない。
いま挙げたようなことが全部ネガティブよりになってくると、きっと昔よりイライラしなくなった理由は関心が無くなってしまったことにあるんじゃないかな。イライラもしないけど、安心や癒しも感じない。悲しいけど、そういうことは起きちゃうよね。
なんだか、そんなことを昨日の夜に考えてたら、眠れなくなって、今日は寝不足気味。
こんな年齢になっても、愛だとか好きだとかって気持ちがちっとも分からない。大馬鹿者だと思う。だけど、どんな決定であっても後悔しないように考え抜かないといけない問題ってある。うやむやにして生きていくことができないのは不器用だからだけど、我儘だからだとも思う。自分でコントロールできないことに根気強く向き合う担力もないのかもしれない。それにもしかすると冷たい人間なのかもしれない。わかんない。最近、自分が嫌な人間に思えてくる。実際そういう部分がある。でも面倒だって理由だけで、惰性で物事を継続することもできそうにない。未来を想像できる道とできない道があるとき、未来が見えない道を選んで歩いていくこともできない。できないことだらけなの。ほんとに。
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新しい出発ってさ、ワクワクするんだけど、何が起きるか分からないから、ちょっとだけ怖い。それに住み慣れた家を離れるのも寂しい。でも多分1番怖くて、ストレスになってるのは、この拘束がいつまで続くかがわからないことだと思う。本当に終わりがいつかが見えないってまぁまぁ辛いの。そこそこやさぐれちゃうくらいには、苦しい。
それでも引越しとか家具の組み立てとか、みんな手伝うよって言ってくれて本当に嬉しかった。そう。辛いけど、それは幸せなことだ。
今日はね、正直になって、この場所に、自分の辛いことと、苦しいことと、怖いことを書き置いたから、頭のキャパが広がるはずなの。
明日はもっと違うことに頭と時間を使いたい。
昔ね、「くよくよするのは、それは君の趣味だね」って言ってきた人がいた。
同じことで悩み続けてる私に対する嫌味だった。そんなしょうもないことに時間を割くなっていう。悩んでる人に対して、なんて厳しいことをいうの?この人はって思った。でも彼が言うこともよく分かるから、なにも言えなくなった。そうやって言葉がどんどん摘み取られていく関係だったのかもしれないね。
たぶん彼以上に、私を混乱に陥れた人はいないと思う。だけど癒しのない関係だったから終わらざるを得なかった。私はその人のこと、大好きだったのか大嫌いだったのか、今となってはよく分からない。だけど、いまも私の記憶から出て行ってくれない人のひとりではある。
記憶って不思議なんだよな。記憶に残るかどうかって一緒に過ごした時間の長さじゃなくて、密度なんだって思う。どれだけ濃い時間を過ごしたかとか、どれだけ心が動いたのかとか。
でもやっぱり本当の癒しをくれた人はダントツで一位。それは疲れを癒してくれたとか、そういうレベルの癒しじゃないの。例えば、生きてる意味を見いだせなくなった時があったとして、生きる意味を再び見つけ出すきっかけをくれたっていうような、そういうレベルでの癒し。誰かに出会って自分が生まれ変わったかのような気持ちにさせられたとき、とても人生に感動したことを覚えてる。
混乱と癒しをくれた人。それぞれ別人だったけど、すごく鮮明に記憶に残ってる。だから、私もいつか誰かにとっての混乱と癒しを与えるような存在になれたらいいのにって思うけど(あっ、混乱は別に与えなくてもいいような気はするんだけど、、、)。まだまだ人間性が、全く足りてないと思う。
これから、もう一度、1人で歩き始める。成長できるかどうかは分からない。でも、今度はむやみやたらと寂しがったりしないの。それくらいには大人になれたはずだから。
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